「ハルシャ!」
叫ぶジェイ・ゼルの言葉を切るように、扉を閉め、チューブに向かう。
廊下を裸足でひた走る。
チューブの前には、先客がいた。
ハルシャがたどり着いた瞬間、目の前で、先客が呼んでいたチューブが開く。
転げるように、ハルシャは中に入った。
驚く人々を尻目に、閉まる、のパネルを連打する。
振り返ると、ジェイ・ゼルが走ってきているのが、目に入った。
彼は顔色を変えていた。
ハルシャと、叫び声が聞こえる。
唇を噛み締めると、ハルシャはジェイ・ゼルから目を反らした。
姿が、閉じた扉に阻まれて、消える。
乗り合わせた人々が、シーツを身にまとっただけの青年に、驚愕の眼を向けていた。
だが、ハルシャは、全く気にしなかった。
人々は、ハルシャを残して、全員が総合受付の階で降りた。
最後の人が降りると、ハルシャは素早く閉まるのボタンを押し、チューブを動かす。一階に着くまで目を閉じて、浮遊感に身を任せる。
後孔と下腹部が痛かった。
眉を寄せて、ハルシャはその痛みに耐え続けた。
一階に着くと、しっかりとシーツを身に巻き付けて、ハルシャはボードを最大出力にして、大地を蹴った。
痛みにバランスを崩しそうになりながら、必死に前に進む。
リュウジは、メリーウェザ医師のところで手伝いをしているはずだ。
ハルシャは、無性にリュウジに会いたかった。
全てを知ってくれている彼に、自分の傷ついた心を預けたかった。
何も考えたくなかった。
彼の温かな腕に、痛めつけられた身を包んで欲しかった。
複雑な地形を、潜り抜けて、ハルシャは、最短距離でオキュラ地域に入る。
痛みが、身を刺すようだ。
足に、液体が垂れる感覚が広がる。
出血、しているのだ。
震える。
しっかりしろと、ハルシャは自分を叱責する。
見慣れた風景になった。
あと少し。
あと少しで、メリーウェザ医師の医療院にたどり着く。
シンプルな医療院の看板を目にして、ハルシャは安堵のあまり、バランスを崩してしまった。
ふっと足元が浮き、そのまま身をねじるようにして、地面に叩きつけられた。
ひゅんっと、ボードが空を舞う。
ハルシャは、受けた衝撃から、しばらく起き上がれなかった。
せわしなく呼吸をし、ゆっくりと、身を起こす。
右腕に、激痛が走った。
まともに地面に打ち付けられていた。
折れたのかもしれない――
ハルシャは、痛みに歯を食い縛りながら、立ち上がった。
右脚も、痛めているようだ。刺すような痛みをこらえながら、左足に体重を乗せ、引きずるようにして、メリーウェザ医師の医療院へと、進む。
にじるように、少しずつしか、前に行けない。
身の痛みに、微かに呻きながら、ハルシャは、歩を進める。
医療院から出てきた中年の女性が、ハルシャに気付いた。
「どうしたんだい、あんた!」
よろめくハルシャを見て、駆け寄ってくれる。
「誰か、来ておくれ! 急患だ、怪我をしている!」
呼ばわる声が、オキュラ地域に響いた。
騒ぎに気付いたのか、医療院の扉が開いて、リュウジが姿を現わした。
リュウジ――
限りない安堵が、広がる。
「ハルシャ!」
叫んで、リュウジが走ってくる。
ハルシャは、安堵しながら、両腕を彼に差し伸ばした。
駆け寄ったリュウジが、崩れる体を抱きとめるように、ハルシャを両腕に包んだ。
足に力が入らず、身が支えられない。リュウジの腕にすがるように、ずるずるとハルシャは地面に腰を下ろした。瞬間、激痛が走り、顔が歪む。
「どうしたんですか、ハルシャ!」
彼の側に居るという安堵から、ハルシャは呟いていた。
「痛い――」
本当の言葉が、口からこぼれ落ちる。
子どものように、ハルシャは窮状をリュウジに訴えていた。
「痛いんですね、ハルシャ。すぐに、運びます」
抱き上げようとしたリュウジの動きが止まった。
すぐ側に、風圧がかかった。
はっと見ると、黒い飛行車が、オキュラ地域の地表に降りてきていた。
ジェイ・ゼルの飛行車だった。
彼は、自分を追ってきたのだと、ハルシャは気付く。
飛行車が狭い地面に、優雅に降り立った。
運転していたのは、ジェイ・ゼルだった。
すぐさま運転席の扉を開けて、ジェイ・ゼルが飛び出してきた。
「ハルシャ!」
これほど必死なジェイ・ゼルの声は、初めて耳にしたかもしれない。
黒い服を乱しながら、彼はハルシャの数歩前で、止まった。
リュウジは守るように、自分に回した腕にぎゅっと力を込めた。
シーツを巻き付け、リュウジの腕に抱かれているハルシャを、ジェイ・ゼルは静かに見つめていた。
灰色の瞳が、揺れながらハルシャへ注がれている。
息を一つしてから、ジェイ・ゼルは口を開いた。
「ハルシャは、こちらで治療をする。渡してくれ」
リュウジの手に力が籠った。
「出来ません」
きっぱりと、リュウジが言い切った。
「彼がシーツを巻き付けているのは、なぜですか。あなたが彼の服を使えないようにしたからでしょう。
明らかに彼は逃げてきています。
逃げた原因であるあなたに、僕はハルシャを渡せません」
押し付けた場所から、彼の声が響いた。
不思議な安堵を覚えながら、ハルシャは彼の温もりに包まれていた。
彼は、自分を傷つけない。
どんな状況でも、側に居てくれる。
それが、涙が出るほどに、嬉しかった。
リュウジの力強い声が、凛として空間に響く。
「この治療院には、メドック・システムがあります。高度な宇宙船仕様の総合医療システムです。
ハルシャは、ここで治療します。
お引き取り下さい」
ジェイ・ゼルが静かにリュウジを見つめていた。
「君が」
言葉がジェイ・ゼルの口から、こぼれ落ちる。
「オオタキ・リュウジか」
ひるむことなく、リュウジは真っ直ぐにジェイ・ゼルを見つめた。
「そうです」
ハルシャを腕に包みながら、彼が問い返す。
「あなたは、ジェイ・ゼルですね」
わずかに眉を寄せただけで、ジェイ・ゼルは答えなかった。
リュウジの目が、射抜くように黒い服をまとう、ジェイ・ゼルを見る。
「今、ハルシャに必要なのは、速やかな治療です。彼はボードでバランスを崩し腕と足を強打しています。
これほど、身体能力の高いハルシャが、どうしてボードから落ちたか解りますか。
あなたがそこまで、追い詰めたからです」
言葉で切り結ぶ、真剣勝負のようだった。
喉元に刃物を突き付けるように、鋭い口調で、リュウジが言葉を放つ。
「帰って下さい」
ハルシャが触れる場所に、リュウジの低い声が響く。
「目障りです」
ジェイ・ゼルは、無言だった。
ふっと、彼は笑うと、ハルシャに視線を向けた。
「ハルシャ」
優しい声だった。
いつもの、穏やかで思いやりに満ちた口調。
リュウジを相手にせずに、彼はハルシャへ視線を真っ直ぐに向けていた。
「傷つけた償いをさせてくれ。私の行きつけの医療機関で診てもらおう」
灰色の瞳が、ハルシャを見つめる。
すっと、ジェイ・ゼルは両手を開いて、ハルシャを受け入れるように差し伸べた。
「おいで――ハルシャ」
おいで。
優しく甘い誘いだった。
ふっと、ハルシャは身が浮きそうになった。
ジェイ・ゼルが、呼んでいる。
かつて愛し合った時と同じように、おいでと自分を招いている。
行かなくては――
痛みに朦朧とする中で、無意識に立ち上がろうとした。
動きかけたハルシャを、リュウジの両腕が、巻き付くようにして引き留める。
「ハルシャは、ここで治療します」
腕を広げるジェイ・ゼルに向かって、切り捨てるように、彼は言った。
「お引き取り下さい、ジェイ・ゼル」
言い切ると、思わぬ強い力で、リュウジはハルシャを腕に抱き上げた。
ふわっと体が浮く。
「ドルディスタ・メリーウェザ!」
リュウジは大声で叫んでいた。
「ハルシャが大変です! メドック・システムを起動してください! 早く!」
リュウジの腕に運ばれながら、薄れそうな意識の中で、ハルシャは、佇むジェイ・ゼルの姿を、見つめていた。
彼はゆっくりと両手を降ろし、運び去られるハルシャの姿を目で追っていた。
視線が、触れ合う。
灰色の瞳が、ハルシャを映している。
彼は――深く悲しんでいるように見えた。
酷くハルシャを抱きながら、一番ジェイ・ゼルが傷ついたように、ハルシャは感じた。
処理しきれない感情を抱え込み、彼はとても苦しんでいた。
彼の元を逃げ出したハルシャを、懸命にジェイ・ゼルは追ってきたのだ。
ネルソンに運転を任せることなく、自らが操縦して。
上空から、ハルシャの姿を探してくれたのだろうか。
普段は決して見せない、乱れた髪と服の彼の姿を、ハルシャは目に映し続ける。
ジェイ・ゼル。
彼の心に向けて、ハルシャは手を伸ばしたかった。だが、身体の自由が利かない。
リュウジが、大股に治療院の中に進んでいく。
扉が開けられ、ハルシャの後で閉められた。
ジェイ・ゼルは、無言で、佇み続けていた。
ハルシャが覚えているのは、そこまでだった。
後は、真っ暗な中に落ち込んでいった。
※サブタイトル『緑の眼の魔物』は、シェイクスピアの悲劇『オセロ』から引かせていただきました。
原文では、“the green-eyed monster” です。直訳すると「緑色の目をした怪物」で、「嫉妬」の表徴として、使われています。
リュウジとジェイ・ゼルは……やはり、龍虎図でしたね。