ほしのくさり

第104話  緑の眼の魔物-02





「ハルシャ!」

 叫ぶジェイ・ゼルの言葉を切るように、扉を閉め、チューブに向かう。
 廊下を裸足でひた走る。

 チューブの前には、先客がいた。
 ハルシャがたどり着いた瞬間、目の前で、先客が呼んでいたチューブが開く。
 転げるように、ハルシャは中に入った。
 驚く人々を尻目に、閉まる、のパネルを連打する。
 振り返ると、ジェイ・ゼルが走ってきているのが、目に入った。
 彼は顔色を変えていた。
 ハルシャと、叫び声が聞こえる。
 唇を噛み締めると、ハルシャはジェイ・ゼルから目を反らした。
 姿が、閉じた扉に阻まれて、消える。

   乗り合わせた人々が、シーツを身にまとっただけの青年に、驚愕の眼を向けていた。
 だが、ハルシャは、全く気にしなかった。
 人々は、ハルシャを残して、全員が総合受付の階で降りた。
 最後の人が降りると、ハルシャは素早く閉まるのボタンを押し、チューブを動かす。一階に着くまで目を閉じて、浮遊感に身を任せる。
 後孔と下腹部が痛かった。
 眉を寄せて、ハルシャはその痛みに耐え続けた。

 一階に着くと、しっかりとシーツを身に巻き付けて、ハルシャはボードを最大出力にして、大地を蹴った。
 痛みにバランスを崩しそうになりながら、必死に前に進む。
 リュウジは、メリーウェザ医師のところで手伝いをしているはずだ。
 ハルシャは、無性にリュウジに会いたかった。
 全てを知ってくれている彼に、自分の傷ついた心を預けたかった。
 何も考えたくなかった。
 彼の温かな腕に、痛めつけられた身を包んで欲しかった。

 複雑な地形を、潜り抜けて、ハルシャは、最短距離でオキュラ地域に入る。
 痛みが、身を刺すようだ。
 足に、液体が垂れる感覚が広がる。
 出血、しているのだ。
 震える。
 しっかりしろと、ハルシャは自分を叱責する。
 見慣れた風景になった。
 あと少し。
 あと少しで、メリーウェザ医師の医療院にたどり着く。

 シンプルな医療院の看板を目にして、ハルシャは安堵のあまり、バランスを崩してしまった。
 ふっと足元が浮き、そのまま身をねじるようにして、地面に叩きつけられた。
 ひゅんっと、ボードが空を舞う。
 ハルシャは、受けた衝撃から、しばらく起き上がれなかった。
 せわしなく呼吸をし、ゆっくりと、身を起こす。
 右腕に、激痛が走った。
 まともに地面に打ち付けられていた。
 折れたのかもしれない――

 ハルシャは、痛みに歯を食い縛りながら、立ち上がった。
 右脚も、痛めているようだ。刺すような痛みをこらえながら、左足に体重を乗せ、引きずるようにして、メリーウェザ医師の医療院へと、進む。
 にじるように、少しずつしか、前に行けない。
 身の痛みに、微かに呻きながら、ハルシャは、歩を進める。

 医療院から出てきた中年の女性が、ハルシャに気付いた。
「どうしたんだい、あんた!」
 よろめくハルシャを見て、駆け寄ってくれる。
「誰か、来ておくれ! 急患だ、怪我をしている!」
 呼ばわる声が、オキュラ地域に響いた。
 騒ぎに気付いたのか、医療院の扉が開いて、リュウジが姿を現わした。

 リュウジ――

 限りない安堵が、広がる。
「ハルシャ!」
 叫んで、リュウジが走ってくる。
 ハルシャは、安堵しながら、両腕を彼に差し伸ばした。
 駆け寄ったリュウジが、崩れる体を抱きとめるように、ハルシャを両腕に包んだ。
 足に力が入らず、身が支えられない。リュウジの腕にすがるように、ずるずるとハルシャは地面に腰を下ろした。瞬間、激痛が走り、顔が歪む。
「どうしたんですか、ハルシャ!」

 彼の側に居るという安堵から、ハルシャは呟いていた。

「痛い――」
 本当の言葉が、口からこぼれ落ちる。
 子どものように、ハルシャは窮状をリュウジに訴えていた。
「痛いんですね、ハルシャ。すぐに、運びます」
 抱き上げようとしたリュウジの動きが止まった。

 すぐ側に、風圧がかかった。
 はっと見ると、黒い飛行車が、オキュラ地域の地表に降りてきていた。

 ジェイ・ゼルの飛行車だった。

 彼は、自分を追ってきたのだと、ハルシャは気付く。
 飛行車が狭い地面に、優雅に降り立った。
 運転していたのは、ジェイ・ゼルだった。
 すぐさま運転席の扉を開けて、ジェイ・ゼルが飛び出してきた。

「ハルシャ!」

 これほど必死なジェイ・ゼルの声は、初めて耳にしたかもしれない。

 黒い服を乱しながら、彼はハルシャの数歩前で、止まった。
 リュウジは守るように、自分に回した腕にぎゅっと力を込めた。
 シーツを巻き付け、リュウジの腕に抱かれているハルシャを、ジェイ・ゼルは静かに見つめていた。
 灰色の瞳が、揺れながらハルシャへ注がれている。
 息を一つしてから、ジェイ・ゼルは口を開いた。

「ハルシャは、こちらで治療をする。渡してくれ」

 リュウジの手に力が籠った。

「出来ません」
 きっぱりと、リュウジが言い切った。
「彼がシーツを巻き付けているのは、なぜですか。あなたが彼の服を使えないようにしたからでしょう。
 明らかに彼は逃げてきています。
 逃げた原因であるあなたに、僕はハルシャを渡せません」

 押し付けた場所から、彼の声が響いた。
 不思議な安堵を覚えながら、ハルシャは彼の温もりに包まれていた。

 彼は、自分を傷つけない。
 どんな状況でも、側に居てくれる。
 それが、涙が出るほどに、嬉しかった。
 リュウジの力強い声が、凛として空間に響く。

「この治療院には、メドック・システムがあります。高度な宇宙船仕様の総合医療システムです。
 ハルシャは、ここで治療します。
 お引き取り下さい」

 ジェイ・ゼルが静かにリュウジを見つめていた。

「君が」
 言葉がジェイ・ゼルの口から、こぼれ落ちる。
「オオタキ・リュウジか」

 ひるむことなく、リュウジは真っ直ぐにジェイ・ゼルを見つめた。

「そうです」
 ハルシャを腕に包みながら、彼が問い返す。
「あなたは、ジェイ・ゼルですね」

 わずかに眉を寄せただけで、ジェイ・ゼルは答えなかった。
 リュウジの目が、射抜くように黒い服をまとう、ジェイ・ゼルを見る。
「今、ハルシャに必要なのは、速やかな治療です。彼はボードでバランスを崩し腕と足を強打しています。
 これほど、身体能力の高いハルシャが、どうしてボードから落ちたか解りますか。
 あなたがそこまで、追い詰めたからです」

 言葉で切り結ぶ、真剣勝負のようだった。
 喉元に刃物を突き付けるように、鋭い口調で、リュウジが言葉を放つ。

「帰って下さい」
 ハルシャが触れる場所に、リュウジの低い声が響く。
「目障りです」

 ジェイ・ゼルは、無言だった。
 ふっと、彼は笑うと、ハルシャに視線を向けた。

「ハルシャ」
 優しい声だった。
 いつもの、穏やかで思いやりに満ちた口調。
 リュウジを相手にせずに、彼はハルシャへ視線を真っ直ぐに向けていた。
「傷つけた償いをさせてくれ。私の行きつけの医療機関で診てもらおう」
 灰色の瞳が、ハルシャを見つめる。
 すっと、ジェイ・ゼルは両手を開いて、ハルシャを受け入れるように差し伸べた。
「おいで――ハルシャ」

 おいで。

 優しく甘い誘いだった。
 ふっと、ハルシャは身が浮きそうになった。

 ジェイ・ゼルが、呼んでいる。
 かつて愛し合った時と同じように、おいでと自分を招いている。
 行かなくては――
 
 痛みに朦朧とする中で、無意識に立ち上がろうとした。
 動きかけたハルシャを、リュウジの両腕が、巻き付くようにして引き留める。

「ハルシャは、ここで治療します」
 腕を広げるジェイ・ゼルに向かって、切り捨てるように、彼は言った。
「お引き取り下さい、ジェイ・ゼル」

 言い切ると、思わぬ強い力で、リュウジはハルシャを腕に抱き上げた。
 ふわっと体が浮く。
「ドルディスタ・メリーウェザ!」
 リュウジは大声で叫んでいた。
「ハルシャが大変です! メドック・システムを起動してください! 早く!」

 リュウジの腕に運ばれながら、薄れそうな意識の中で、ハルシャは、佇むジェイ・ゼルの姿を、見つめていた。
 彼はゆっくりと両手を降ろし、運び去られるハルシャの姿を目で追っていた。
 視線が、触れ合う。
 灰色の瞳が、ハルシャを映している。
 彼は――深く悲しんでいるように見えた。
 酷くハルシャを抱きながら、一番ジェイ・ゼルが傷ついたように、ハルシャは感じた。
 処理しきれない感情を抱え込み、彼はとても苦しんでいた。
 彼の元を逃げ出したハルシャを、懸命にジェイ・ゼルは追ってきたのだ。
 ネルソンに運転を任せることなく、自らが操縦して。
 上空から、ハルシャの姿を探してくれたのだろうか。
 普段は決して見せない、乱れた髪と服の彼の姿を、ハルシャは目に映し続ける。

 ジェイ・ゼル。

 彼の心に向けて、ハルシャは手を伸ばしたかった。だが、身体の自由が利かない。
 リュウジが、大股に治療院の中に進んでいく。
 扉が開けられ、ハルシャの後で閉められた。
 ジェイ・ゼルは、無言で、佇み続けていた。

 ハルシャが覚えているのは、そこまでだった。
 後は、真っ暗な中に落ち込んでいった。







※サブタイトル『緑の眼の魔物』は、シェイクスピアの悲劇『オセロ』から引かせていただきました。
原文では、“the green-eyed monster” です。直訳すると「緑色の目をした怪物」で、「嫉妬」の表徴として、使われています。

リュウジとジェイ・ゼルは……やはり、龍虎図でしたね。










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