ハルシャは、受付で教えられた番号の部屋の前で、軽く呼吸を整えた。
いつものことなのに、何をいまさら、緊張しているのだろう。
手を挙げて、一瞬ためらってから、扉を軽く叩く。
「開いているよ」
くぐもった声が聞こえる。
どきんと、胸が、再び躍る。
ハルシャは、扉のマークに触れた。
しゅっと音がして、軽く左右に扉が開いていく。
ジェイ・ゼルは、机に座っていた。
電脳を前に据えて、画面を見つめている。
仕事中なのだろうか。
顔を上げて、ジェイ・ゼルはハルシャへ視線を向けた。
彼の顔に、静かな笑みが浮かんだ。
「急に呼び寄せて、すまなかったね、ハルシャ」
ジェイ・ゼルは、椅子から立たないままに、ハルシャに言葉をかけてきた。
いつもなら。
入り口で自分を迎えてくれる。
仕事の手が離せないのだろうか。
思いながら、ハルシャは歩を進め、扉の横にボードを立てかけた。
「遅くなってすまない、ジェイ・ゼル」
言いながら近づくハルシャに、ジェイ・ゼルは笑みを深めた。
「いや。思ったより早かったぐらいだ」
椅子に座り、足を組むジェイ・ゼルの側に、ハルシャは近づいていった。
ハルシャが電脳に目を向けていることに、彼は気付いたようだ。
「面白い画像があってね」
電脳を見ていることを、説明する口調で、彼は言った。
「見てみるか、ハルシャ?」
誘いをかけてから、後ろに来たハルシャに見やすいように、ジェイ・ゼルは電脳を動かした。
面白い画像、という言葉に、ハルシャは興味を持った。
惑星ガイアに生息する、イヌ科のジャッカルの画像を探してくれたのだろうか。
見てみたいと、彼に言っていたのだ。
ジェイ・ゼルが座る椅子の背もたれに手を預けて、ハルシャは動かしてくれた電脳の画像をのぞき込んだ。
瞬間。
全ての思考が止まった。
そこに映し出されていたのは、自分だった。
そして、サーシャと。
リュウジの姿だった。
紙袋を抱えたリュウジと、サーシャが会話を交わしている。
――リュウジは、どうしてあのお店を選んだの?
音声を消した画像なのに、その時、交わした会話が、耳の中で再生されている。
リュウジが優しく微笑んで言う。
――とても人のよさそうなおじいさんでしたから。サーシャぐらいの孫がいそうだと、予想してみただけです。
サーシャが、その答えに笑う。
――大正解だったね、リュウジ!
明るいサーシャの笑い声の向こうから、リュウジがハルシャに声をかけた。
――ハルシャぐらいの孫も、いると良かったのですが。
何をバカなことを、とハルシャは笑って首を振った。
歩いているリュウジは、荷物が重そうだった。
気になっていたハルシャは、彼の手から荷物をひょいと取り上げた。
――大丈夫です。そんなに重くはありませんから。
リュウジは手に怪我をしたばかりだった。ハルシャは説得し、自分が抱えて歩き出す。
上手く買い物が出来て、皆が幸せに浸っていた時だ。
そして、そのまま、自宅へと戻った。
画像は、そこで終わっていた。
ジェイ・ゼルが、静かに画像を停止させた。
彼の沈黙は、重く静かだった。
一体、どうして、自分たちの映像が記録されているんだ。
そして。
それを、なぜ、ジェイ・ゼルは持っているんだ。
どうして――自分に見せたんだ。
ハルシャは混乱の中に居た。
「ハルシャ」
静かなジェイ・ゼルの声が響いた。
「君は今、この黒髪の青年と一緒に、暮らしているのだね」
背を向けたまま、ジェイ・ゼルが呟いている。
ハルシャは、ぐっと両手を握りしめた。
「そうだ、ジェイ・ゼル」
ぴくっと、彼の肩が震える。
ハルシャは、何とか説明しようと、言葉を続けた。
「彼はオキュラ地域で行き倒れになっていた。そこに、私は偶然行きあわせて――怪我をしていた彼を、保護した」
座るジェイ・ゼルの背を見つめながら、ハルシャは、どうして自分はこんなに懸命に事情を説明しているのだろう、と、自分でもいぶかしがった。
「彼は記憶を失っている。しかも行き場がなかった。助けた責任上、彼を部屋に置いているだけだ」
ジェイ・ゼルの目が、まだ、消えた画面に注がれていた。
「随分と、親しそうだね」
静かな彼の声が響いた。
ハルシャは、瞬きをした。
「一緒に暮らしていて、喧嘩をわざわざする必要もない」
「そうか」
画面を見つめたままで、ジェイ・ゼルが呟いた。
「それで」
ふっと視線が、虚空へ向けられた。
「彼とは、もう寝たのか――ハルシャ」
言葉の意味が、すぐにハルシャには、理解出来なかった。
寝る。
はっと、意味に思い至る。
「なっ!」
顔が真っ赤になった。
「何を言っているんだ、ジェイ・ゼル!」
信じられないことを、彼は口にした。
「彼は、ただの友人だ!」
自分とリュウジがもう寝たかと、そう言っているのだ。
何ということを。
不意に、ジェイ・ゼルが顔を巡らせて、ハルシャへ視線を向けた。
静かな目が、自分の戸惑いと怒りを、見つめる。
「何をそんなに、怒っているのだね、ハルシャ」
冷静な物言いに、かっとハルシャは怒りが弾け散った。
「ジェイ・ゼルが!」
悔しかった。
意味もなく、ただ、悔しかった。
「あまりにも、低俗なことを言うからだ!」
疑われた。
自分がリュウジと寝ていると。
ジェイ・ゼル以外を、受け入れていたと。
それが、何よりも辛く悔しかった。
「彼とは寝ていない! ただの友人だ!」
息が荒くなる。
顔を紅潮させるハルシャを、じっとジェイ・ゼルが見つめていた。
「――低俗、とは、どういう意味かな?」
静かな声で、彼が尋ねている。
「説明してくれるか、ハルシャ」
どうして、こんな言い合いをしているのか、ハルシャには解らなかった。
リュウジは、辛い目に遭ってしまった。
記憶を手離してしまいたいほど、辛い目に。
だから、保護せずにはいられなかった。
そんなことを、ジェイ・ゼルに説明しても仕方がない。
怒りを必死に収めながら、努めて冷静になろうと、言葉を告げる。
「リュウジは――良識のある、穏やかな人柄だ。サーシャもよく懐いている」
内側から、辛い思いがあふれて、声が震えそうになる。
「彼は、男を抱くような人ではない。お願いだ、彼と寝るなど、言わないでくれ、ジェイ・ゼル」
懇願するように、ハルシャは言った。
ハルシャの言葉を聞きながら、ジェイ・ゼルは表情を動かさなかった。
「なるほど」
静かな深い言葉が、彼の口からあふれた。
「君は、男を抱くような人間は、低俗だと思っているのだね。
つまり、私のような人間は、低俗だと――そう思っているのだね、ハルシャ」
違う。
そうじゃない。
リュウジを無理やりに力づくで思い通りにした人々のことが、頭をよぎり、そんな言い方をしてしまっただけだ。
低俗など――ジェイ・ゼルを傷つける言葉を、思わず口にしてしまった。
ハルシャは、叫びたい言葉を、喉の奥に凍り付かせて、黙り込んだ。
「男を抱くような人間は、低俗なのだね。実に上流階級らしい、凝り固まった考え方だ」
ふっと笑いながら、彼は続ける。
「なら、ハルシャ。君も同じだな。男に抱かれている君も」
笑みを消して、叩きつけるように彼が言う。
「同じように――低俗だ」
衝撃に、ハルシャはしばらく、言葉が出なかった。
ハルシャを、傷つけるために、発せられた言葉だった。
事実が、しんと、胸を打った。
そうだ。自分は、この男に抱かれている、低俗な人間だ。
借金のかたに、身を差し出すしかない。
最低の人間だ。
「そうだ、ジェイ・ゼル」
ハルシャは、呟いた。
「男に抱かれるような者は、煉獄の中で、炎に焼かれるんだ――その罪によって」
母が言っていたことだった。
男色は禁じられたことだと。
神々の園に行くことは出来ないのだと。
ジェイ・ゼルに抱かれるたびに、その罪の烙印を捺されているような気がした。
ごめんなさい、お母さま。
行為の中で、ハルシャは、母に謝り続けていた。
自分の罪のために、父と母が天国へ行けなかったらどうしよう。
いつも、いつも、それが不安だった。
自分だけが炎に焼かれるのはいい。だが、両親までが、自分の罪に巻き込まれてしまったら、どうしたらいいのだろう。
快感など、覚えてはいけない。
これは、罪の行為なのだから。
ずっと、そう思い続けて来た。心を縛る、重い鎖のようだった。
見ない様にして来た、心の痛みが、蘇って来た。
ジェイ・ゼルの灰色の瞳が、自分を見つめていた。
眉を寄せて、静かに。
その瞳に向けて、ハルシャは呟いていた。
「だがリュウジは違う。私と彼は――友人だ」
ジェイ・ゼルの眉がきつく寄せられた。
「毎晩、同じ部屋で、枕を並べて眠りながら、か。ハルシャ」
「サーシャも、同じ部屋で寝ている」
どうして、こんなに追い詰められなくては、ならないのだろう。
心から絞り出すように、ハルシャは叫んでいた。
「彼とは、何もない!」
ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルが不意に椅子を倒して立ち上がった。
「こんな笑顔を、この男に向けているのに、か!」
手に、ハルシャの笑顔が印刷されたものがあった。
ジェイ・ゼルの目が、底光りする。
「君は、この男の前では、自分のことを私と呼ぶのだね、ハルシャ」
何を、ジェイ・ゼルは怒っているのだろう。
意味が解らない。
「ジェイ・ゼルに報告しなかったことは悪かった。だが、記憶が戻るまでと思っていただけだ」
ハルシャは、懸命に言葉を続ける。
「工場の仕事を覚えたいと、職場にも連れて行っていた。そこでジェイ・ゼルに会ったら紹介するつもりだった――隠していたわけではない」
ハルシャの言葉を、黙って、ジェイ・ゼルは聞いていた。
灰色の瞳が、静かに自分を見ている。
「ハルシャ」
彼が口を開いた。
「わかっていないようだね。君の部屋代は、私だけを受け入れるという契約の元に支払われている。
君が他人を自分の趣味で飼うのなら、あの部屋から、出て行ってもらおう」
ひどい、言葉だった。
ジェイ・ゼルは、懸命なハルシャの言葉を、何一つ理解してくれていない。
「私は、契約を破ってなどいない」
声が震える。
どうして。
疑われているのだろう。
リュウジは、家族だ。大切な――それ以上でもそれ以下でもあり得ない。
どうして。
ジェイ・ゼルは、信じてくれないのだろう。
「私は、ジェイ・ゼルの言う通りにして来た。契約通りに、求められるままに相手をし、どんな行為も拒んでこなかった」
硬質な声が、自分の喉から、転がり落ちる。
「きちんと契約を守って来た。なのに……それ以外のことでも、私は制約を受けなくてはならないのか」
ハルシャは顔を上げた。
灰色の瞳が、激しい炎を秘めて、ハルシャを見ている。
彼は――ハルシャを信じようとは、してくれなかった。
悲しみと怒りが、胸の中で爆発した。
「誰と暮らそうと、私の自由だろう! ジェイ・ゼルには、関係ないことだ!」
不意に、ジェイ・ゼルが動いた。
激しい力で手首が捕えられ、乱暴に引き摺られた。
ハルシャは、とっさに抵抗した。
抗いが、彼に火を点けたようだった。
胴を腕で横抱きにすると、そのまま、ベッドの上に、放り出された。
受け身を辛うじて取り、痛みを逃がす。
ベッドに打ち付けられた体を、上からのしかかるようにして、ジェイ・ゼルが押さえつける。
両手首をつかまれ、ベッドに押し付けられる。
足は、腿で押さえつけられた。
ハルシャは、身を捩って、彼の手を逃れようとした。
「行為を拒むのは、契約違反だ、ハルシャ」
荒げた息の中で、ジェイ・ゼルが呟く。
冷たい口調だった。
はっと、ハルシャは動きを止めた。
「忘れるな、君は私に多額の借金がある。この行為は、借金免除のためのものだ。君に拒否権はない」
静かな声だった。
感情を何一つ込めない、冷酷な言葉。
そうだ。
自分は、ジェイ・ゼルの道具に過ぎない。
どんなに愛情をかけられているように見えても、たったこれだけのことで、もろくも崩れてしまう。
今まで積み上げてきた、全てが――
消え去るのだ。
歯を食い縛ると、ハルシャは、全身の力を抜いた。
抵抗しないことを確かめてから、ジェイ・ゼルは手首を解放し、その手で、ハルシャの服を持った。
荒々しく、服が裂かれた。
乱暴な手つきで、ハルシャは身から、服をはぎ取られていく。
最初の時のように。
労りも、思いやりもない手つきで――。
横を向き、ハルシャは、虚空を見つめる。
彼は怒りの極にあるようだった。
感情を荒げたまま、彼はハルシャの身から、服を取り去った。
全身の力を抜いて、ハルシャは彼の行為を受け入れていた。
身から服をはぎ取ってから、ジェイ・ゼルは静かに命じた。
「四つ這いになれ、ハルシャ」