「お気をつけて」
リュウジの声に、ハルシャが軽く手を振り応える。そのまま彼は、浮かせたボードに足を乗せて、軽やかに動き出した。
しなやかな若い獣のようだった。
足元で絶妙にバランスを取り、ハルシャは迷いのない動きで、進んでいく。
階段の手すりに軽く体を預け、小さくなっていく姿を、リュウジは無言で見送っていた。
ハルシャは、逢いに行くのだ。
ジェイ・ゼルに。
リュウジは心の中に呟きながら、ハルシャの背中を見つめる。
昼食もそこそこに、二人は昼のバスでオキュラ地域に戻って来た。
自宅に入ると、ハルシャは慌ただしく玄関先のボードを手に取る。
鍵をリュウジの手の平に乗せて、早く戻れそうだったら、メリーウェザ先生の所へ寄るから、一緒に帰ろう。鍵を取り敢えず預けておく、と渡してくれた。
言葉を思い出しながら、ぎゅっと、リュウジは手の鍵を握りしめる。
その後、ハルシャはすぐさま階段をかけ降りて、ボードの駆動ボタンを押していた。
見送るリュウジの声に手を振ってから、真っ直ぐにボードを蹴り出す。
頬を微かに紅潮させ、彼は家を飛び出していった。
嬉しげな微笑みが、ハルシャの口元に浮かんでいるのを、リュウジは見逃さなかった。
逢いたいのだ、ジェイ・ゼルに。
ハルシャは――。
もう見えなくなった姿を、なおも目で探しながら、リュウジは小さく心に呟いていた。ジェイ・ゼルの非道さを指摘した時、ハルシャは思わぬ強い口調で言い返してきた。
ハルシャ自身も、自分の口調に驚いていた。
ジェイ・ゼルを非難されたことに、深く傷ついた顔で、黙り込んだ彼の顔を見て、リュウジはそれ以上、何も言えなくなった。
ハルシャは、とてもジェイ・ゼルが大切なのだ。
彼は、素直で、真っ直ぐな気性をしている。
そして、無意識のうちに、人の良い面を見ようとする、純真さを持っている。
身を合わせているうちに、情が移るというのは、よくあることだ。
ハルシャは、ジェイ・ゼルの手管に惑わされているのかもしれない。
きゅっと、リュウジは唇を噛み締めた。
最初の時に、手荒く扱われたと、言っていたのに――
しかも。
媚薬を使うような、相手なのに。
リュウジは黙したまま、視線を落とした。
それでも、ハルシャは、ジェイ・ゼルに逢いたいのだ。
少年のような顔で、彼はまっしぐらに呼び出し先に向かった。
ハルシャは――
ジェイ・ゼルのことが、好きなのだ。
伏せた視線のまま、リュウジは朝の会話の後で、寄せたリュウジの唇を、顔を背けてハルシャが拒んだことを思い出す。
藍色の瞳を地面に向けながら、リュウジは何も見ていなかった。
渦巻く自分の中のどす黒いものだけを、黙したまま、見つめ続ける。
ハルシャは。
触れさせたくなかったのだ。自分の唇を――
ジェイ・ゼル以外の者に。
あの時、彼の心を読み取って、リュウジは身を引いた。
無理強いをしたいわけではなかった。
だが。
意識がある中では、ハルシャは自分の唇を、受け入れてはくれない。
その事実が、身を裂くようだった。
家族であることを選んだのは、自分だった。
身を委ねられる、安全地帯であろうとしたのは、リュウジの選択だ。
だから。
それ以上、ハルシャの中に踏み込んではいけない。
今は、まだ――
不用意に揺さぶると、ハルシャは自分を拒んでしまう。
ことんと、心に落とし込みながら、眉を寄せる。
沈黙したまま、自分の心にわだかまる、黒い渦をしばらく整理する。
やっと、落ち着きを取り戻してから、静かに歯に仕込んだ通話装置のスイッチを舌で入れた。
「
呼びかけに、すぐさま声が返って来た。
『はい、
「ディー・マイルズ警部についてくれているのか」
『はい。今、横にいらっしゃいます』
「本当に手数をかける。感謝を伝えてくれ」
吉野はマイルズ警部に言葉を伝えたらしい。いいよ、こちらも楽しんでいるという、マイルズ警部の声が聞こえた。
「
リュウジの言葉に、吉野が意識を戻す。
『はい、何でしょうか。
「僕は今、オキュラ地域に戻っている。少し時間が出来たのだが、会うことは出来るかな」
『はい、もちろんです。今、ラグレン中央部におりますので、すぐにそちらに参ります。ご自宅になら、十数分で伺うことが出来ます』
「いや」
リュウジは扉に向かい、手の中の鍵を使って、施錠する。服に、大事そうに鍵を入れる。
「ここは目立つ。そうだな――」
扉を閉め、服に鍵をしまいながら、リュウジはにこっと笑って、言葉を続けた。
「警部がお泊り頂いている宿泊施設は、今いる場所から遠いか?」
『いいえ。飛行車で十分ほどです』
「なら、そこで落ち合おう。僕も今からそこへ行く」
『公共交通機関で、いらっしゃいますか』
「そうだな」
『それでしたら、ロンダルド駅においでください。そこの駐車スペースにて、飛行車でお待ちしております。ご一緒に宿泊施設に参りましょう』
吉野の言葉を考えてから、リュウジは小さくうなずいた。
「そちらのほうが、タイムロスが少ないか。わかった
『了解いたしました。ロンダルド駅の駐車スペースでお待ちいたしております』
「うん。頼む」
リュウジは舌先で、通信を切った。
ふっと息をする。
扉を見つめてから、踵を返した。
階段を降りながら、ラグレンの空を見上げる。
今、ハルシャは借金によって身をがんじがらめにされ、ジェイ・ゼルに縛り付けられている。
劣悪な環境での仕事を強いられることも、ジェイ・ゼルの相手をさせられるのも、ハルシャは運命として受け入れ、臆することなく立ち向かっている。
その勇気と気高さを、リュウジは心に思う。
空を見る。
ハルシャには、この空を自由に飛ぶ翼が背にあることを、もう一度彼に思い出して欲しい。
そのためになら、何でもしようと、リュウジは心に呟いていた。
*
地上から『エリュシオン』に上がるのは、二度目だった。
ハルシャは、弾む息を落ち着かせ、ボードをしっかりと脇に抱えてから、つま先立ちになりながら、インターホンを押した。
『はい、総合受付、フロントです』
やはり、躾の行き届いた『エリュシオン』にしては、尖った声で音声が響く。
ハルシャは、自分はジェイ・ゼルの連れであること、彼はもうすでに部屋に入っているだろうことを、総合受付の係に告げる。
名前を確かめられ、ハルシャ・ヴィンドースと名乗ると、途端に口調が柔らかくなった。
ジェイ・ゼルの部屋番号を教えられ、チューブで降りる階を教えてもらった。
以前の通り、少し待つとチューブが地上一階に降りて来て、しずしずと左右に開いていく。
総合受付を通らずに、直接部屋に行くのは、初めてのことだった。
ハルシャは、チューブに乗り込むと、教えられた階の番号を押した。
すっと、チューブの扉が閉じて、上の階へと運ばれていく。
昼を、少し過ぎた頃だ。
ジェイ・ゼルはもう、昼食を済ましただろうか、とハルシャはボードを抱え直しながら、考えていた。
夜明け前に、彼の口の中にサンドウィッチを運んでいたことが、何の前触れもなく浮かび、ハルシャは誰もいないチューブの中で、盛大に顔を赤らめた。
バスローブのはだけやすい服を、懸命に掻き寄せながら、彼の口に食事を運び続けた。
最後には、お礼にと、ジェイ・ゼルがハルシャの口に、切り取ったサンドウィッチを入れてくれる。
惑星ガイアに生息するジャッカルという犬の一種は、きっと、仲間の絆が深いのだろう、と、ハルシャは思った。
互いに食事を与え合う行為は、とても親密で信頼を深めるような気がした。
料理を作るということは、相手の命を想うこと。
サーシャが真っ直ぐに首を伸べて告げていた言葉が、ジェイ・ゼルの手から口に食事を運ばれている時、ハルシャの中に蘇った。
二人で会う時は、いつもジェイ・ゼルはあらかじめ食事を用意して、ハルシャを迎えてくれていた。
行為だけが目的ではなく、ハルシャの命そのものを大切に、彼は想っていてくれたのかもしれない。
そんなことに、ふと気づく。
ハルシャの口から手を引きながら、ジェイ・ゼルが静かに自分を見つめる。
与えた食糧を、噛みしだくハルシャの口元を、じっと見つめ続ける。それが体に吸収され、命の基となることを祈るように。
ハルシャがごくんと、サンドウィッチの一切れを飲み込むと、ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
おいしいかい? ハルシャと、優しく問いかける。
ハルシャは、なんとなく顔を赤らめながら、うなずくことしか出来なかった。
思い出しているうちに、ジェイ・ゼルが待つ階にたどり着いた。
ちんと、可愛らしい音がして、すっとチューブの扉が開く。
ぎゅっと、ボードを握り直す。
目の前にボルドーの落ち着いた色合いの絨毯が広がる。
心臓を躍らせながら、ハルシャはチューブから一歩を踏み出した。
*
「坊の勘は、正しいかもしれない、な」
『アルティア・ホテル』の一室で、深々とソファーに腰を下ろしながら、マイルズ警部は言葉を天に呟いた。
「ダルシャとシェリアのヴィンドース夫妻は、謀殺されたようだな。爆発物の痕跡はなかった。おそらく兵器型のスクナ人が使われたのだろう」
吉野から、午前中マイルズ警部は、ラグレンの警察に行って、身分証を見せながらヴィンドース夫妻爆死事件の詳細を閲覧してきたと聞いていた。
わざわざ、ラグレンの警察に行ったのは、二重の意味があるらしい。
一つは、純粋にヴィンドース夫妻の事件の情報を得たかったということ。
そして、もう一つ。
汎銀河帝国警察機構が、ヴィンドース夫妻の事件について調査をし始めたと、ラグレンの警察内部に、知らしめるため、だった。
何か、動きがあるかもしれないと、ディー・マイルズ警部は考えていた。
彼が帝星から伴ってきた部下五人は、マイルズ警部とは別口で、色々と動いているらしい。
切れ者のマイルズ警部らしい、采配だった。
鍛え抜かれた警部の勘が、今回の事件は裏があると嗅ぎ出したようだ。
リュウジの前で静かに椅子に身を沈めながら、彼は言葉を続けた。
「スクナ人は、前世紀の遺物だ。
が、あまりに優秀なので、誰も手離したがらないのが、事実だな。スクナ人は寿命がとてつもなく長い。メンテナスさえきちんとしていれば、三百年間は生き続ける――誰かが、一五〇年前、銀河帝国から撤廃令が出た時に、スクナ人を廃棄したと虚偽の申告をして、そのまま保有し、今も自分の都合で使い続けている可能性は高い。ことに、惑星トルディアは古い植民星だ。入植当時、スクナ人はまだ、違法ではなかった」
惑星トルディアの中に、違法なスクナ人が存在している可能性を、マイルズ警部は指摘していた。
「で」
ゆっくりと、身を起こしながら、マイルズ警部がリュウジを見つめた。
「問題は、どうして、ヴィンドース夫妻を殺害する必要があったか、ということだな」
彼は膝に身を預けて、前かがみになった。
「ちょっと気になって、帝星を出る前に、ダルシャ・ヴィンドース夫妻のことを、調べてきた。
実に健全な経歴の人たちだな。彼らが経営していたヴィンドラダンス貿易会社は、帝星の商社とも取引があったようだが、汚い手を一切使わない、非常に信頼できる取引相手だったと、皆が口を揃えて言っていた。五年前の死亡も、皆が残念がっていたよ。ヴィンドラダンス貿易会社は、競売にかけられ、権利を惑星シッドラドのパレ・ドラ商会が買い取った。
信じられないほどの安い値段で、買い叩いて――」
言葉を切ると、マイルズ警部は、静かに微笑んだ。
「パレ・ドラ商会の黒幕は、イズル・ザヒルの『ダイモン』だ」
微笑んだまま、マイルズ警部は、リュウジの顔を見つめていた。
「さすがだな。そこまでの情報は、掴んでいたか。坊」
リュウジも微笑んだ。
「
ふふと、警部が笑う。
「ヴィンドース夫妻の殺しには裏があると、見抜いたのは、坊だろう?」
言葉は返さず、リュウジはただ、笑みを深めた。
マイルズ警部は、ふうっと、息を吐いた。
「しかし。そんなに品性方向なヴィンドース夫妻が、何故殺されなくてはならないか。お前さんが言っていた、借金のことも気になった。
で、短い時間だが、調べ上げた結果、一つの手がかりが見つかったんだ」
マイルズ警部の、ヘイゼルの瞳が、リュウジを見つめていた。
「ダルシャ・ヴィンドースの祖先、ファルアス・ヴィンドースは、惑星トルディアの父と言われているそうだな」
リュウジは静かに肯いた。
「ファルアス・ヴィンドースは惑星トルディアの大気から、有害な物質、トルディオキシンを発見した。それで人類は、惑星トルディアに入植が可能になった」
暗唱するように言ってから、マイルズ警部は帽子を脱いで、頭をカリカリと掻いた。
「俺も、随分惑星トルディアの歴史に詳しくなったよ」
リュウジは、にこっと笑みを返した。
しばらく頭を掻き、手櫛で整えてから、マイルズ警部は帽子を優雅にかぶり直した。
「実はな、坊。
ファルアス・ヴィンドースには、もう一つ、どうしても成し遂げたいことがあったんだよ。残念ながら、肺が病に侵されて、志半ばで死亡してしまったが」
きゅっと後ろを下げて、帽子をあみだに被る。
「ファルアス・ヴィンドースの悲願。
それが、惑星トルディアにある『偽水《ぎすい》』を、人類の飲料水として、加工できないか、というものだったんだ」
リュウジは瞬きをした。
「現在、惑星トルディアの飲料水は、ほとんど惑星ガイアからもたらされたものだ。そのために、大変に高価だ。
だが、惑星トルディアの埋蔵水を使うことが出来れば、人類はもっと豊かな生活を送ることが出来る。
それが、ファルアス・ヴィンドースの、果たせなかった夢だ」
ふっと、聞かされたことが、ハルシャの姿と重なった。
自分の利益のためでなく、皆が平和で幸せな生活を送るために、自分の人生を捧げて悔いのない生き方。
その高潔さを、遠い子孫であるハルシャ・ヴィンドースの中に、リュウジは感じ取った。
やはり、彼は。
惑星トルディアの父と呼ばれた人物の、子孫なのだ。
沈黙の後、マイルズ警部は、口を開いた。
「ハルシャの父親、ダルシャ・ヴィンドースは、その祖先の夢を、実現させようと、古くから偽水の精製に取り組んでいたようだ。
彼は、帝星の研究機関に、莫大な出資をして、偽水を飲料水に変換する方法を調べさせていたんだよ。
結果――研究機関はついに偽水を純粋な水に分解する手段を見出した。
七年前のことだ。
これで、水不足によって、幼い子が、脱水症状で死ななくて済む――研究機関から報告を受けたダルシャ・ヴィンドースは、開口一番、そう言ったそうだ。
さらに一年をかけて、確実な成果を得るようになってから、ダルシャ・ヴィンドースは、本格的な工場を惑星トルディアに作り、偽水を飲料水にするシステムを、構築しようとした。
その資金が――恐らく、ジェイ・ゼルから借りた、一四七万ヴォゼルだ」
リュウジは、藍色の瞳で、マイルズ警部を見つめ続けていた。
「では。その資金は、今。どこに?」
問いかけに、瞬きをしてから、警部は応えた。
「こっちに来なくてはならなくて、時間切れになり、資金の所在はまだ、掴めていない。だが、帝星に残してきた部下に、引き続き調査を依頼している。
何かが掴めたら、連絡をしてくれる。
偽水を飲料水に変換する機械の開発に回したのかもしれない。まだ、結果は解らないが、資金がまだ、動いている可能性はある」
一四七万ヴォゼル。
惑星トルディアに、豊かな飲料水をもたらすために、ハルシャの父が借り入れを決断した、金額。
急いで資金が必要となったのだろう。
吉野がジェイ・ゼルの会社の、メイン電脳に忍び込んで、掴み出して来たデータの中に、ハルシャが五年前所有していた不動産の中に、別荘地というのがあった。建物がない、たんなる敷地だった。
もしかしたら、それが、工場用に転用される可能性があったのかもしれない。
幼い子が、脱水症状で死ななくて済む。
成果を聞かされた時、ハルシャの父親は、利益ではなく、命を守れることを、喜んだ。
私財を投げうって、惑星トルディアの未来のために、懸命に努力をしていた人を、誰かが無慈悲に排除したのだ。
「惑星トルディアの飲料水は」
リュウジは静かに口を開くと、言葉を続けた。
「どこが、扱っているのですか」
その質問に、ゆっくりと、マイルズ警部が微笑んだ。
「さすがだ、坊。
目の付け所がいい。俺もまず、それを考えた。
善意でダルシャ・ヴィンドースが、偽水を飲料水に変えたとすると、飲料水の価格が下がる。
困るのは、今、惑星トルディアで飲料水を扱い、利益を得ている人間だ」
ヘイゼルの目が、底光りした。
「坊。惑星トルディアでは、飲料水は、政府の専売物だ。
高い関税をかけ、ここではラグレン自治政府が売買の一切を管理している。
飲料水の売り上げは、全部政府に流れ込んでいるんだ――
ところが、偽水は採掘権さえあれば入手できる。
ダルシャ・ヴィンドースが偽水から飲料水を作って、惑星トルディアの人々を潤すようになって一番困るのは――」
静かに、ディー・マイルズ警部は微笑んだ。
「ラグレン政府だよ。坊」