ほしのくさり

第100話  流れなかった涙-01







「お気をつけて」
 リュウジの声に、ハルシャが軽く手を振り応える。そのまま彼は、浮かせたボードに足を乗せて、軽やかに動き出した。
 しなやかな若い獣のようだった。
 足元で絶妙にバランスを取り、ハルシャは迷いのない動きで、進んでいく。
 階段の手すりに軽く体を預け、小さくなっていく姿を、リュウジは無言で見送っていた。

 ハルシャは、逢いに行くのだ。
 ジェイ・ゼルに。

 リュウジは心の中に呟きながら、ハルシャの背中を見つめる。
 昼食もそこそこに、二人は昼のバスでオキュラ地域に戻って来た。
 自宅に入ると、ハルシャは慌ただしく玄関先のボードを手に取る。
 鍵をリュウジの手の平に乗せて、早く戻れそうだったら、メリーウェザ先生の所へ寄るから、一緒に帰ろう。鍵を取り敢えず預けておく、と渡してくれた。
 言葉を思い出しながら、ぎゅっと、リュウジは手の鍵を握りしめる。

 その後、ハルシャはすぐさま階段をかけ降りて、ボードの駆動ボタンを押していた。
 見送るリュウジの声に手を振ってから、真っ直ぐにボードを蹴り出す。
 頬を微かに紅潮させ、彼は家を飛び出していった。
 嬉しげな微笑みが、ハルシャの口元に浮かんでいるのを、リュウジは見逃さなかった。

 逢いたいのだ、ジェイ・ゼルに。
 ハルシャは――。

 もう見えなくなった姿を、なおも目で探しながら、リュウジは小さく心に呟いていた。ジェイ・ゼルの非道さを指摘した時、ハルシャは思わぬ強い口調で言い返してきた。
 ハルシャ自身も、自分の口調に驚いていた。
 ジェイ・ゼルを非難されたことに、深く傷ついた顔で、黙り込んだ彼の顔を見て、リュウジはそれ以上、何も言えなくなった。
 ハルシャは、とてもジェイ・ゼルが大切なのだ。
 彼は、素直で、真っ直ぐな気性をしている。
 そして、無意識のうちに、人の良い面を見ようとする、純真さを持っている。
 身を合わせているうちに、情が移るというのは、よくあることだ。
 ハルシャは、ジェイ・ゼルの手管に惑わされているのかもしれない。
 きゅっと、リュウジは唇を噛み締めた。
 最初の時に、手荒く扱われたと、言っていたのに――
 しかも。
 媚薬を使うような、相手なのに。

 リュウジは黙したまま、視線を落とした。
 それでも、ハルシャは、ジェイ・ゼルに逢いたいのだ。
 少年のような顔で、彼はまっしぐらに呼び出し先に向かった。
 ハルシャは――
 ジェイ・ゼルのことが、好きなのだ。

 伏せた視線のまま、リュウジは朝の会話の後で、寄せたリュウジの唇を、顔を背けてハルシャが拒んだことを思い出す。
 藍色の瞳を地面に向けながら、リュウジは何も見ていなかった。
 渦巻く自分の中のどす黒いものだけを、黙したまま、見つめ続ける。

 ハルシャは。
 触れさせたくなかったのだ。自分の唇を――
 ジェイ・ゼル以外の者に。

 あの時、彼の心を読み取って、リュウジは身を引いた。
 無理強いをしたいわけではなかった。
 だが。
 意識がある中では、ハルシャは自分の唇を、受け入れてはくれない。
 その事実が、身を裂くようだった。
 家族であることを選んだのは、自分だった。
 身を委ねられる、安全地帯であろうとしたのは、リュウジの選択だ。
 だから。
 それ以上、ハルシャの中に踏み込んではいけない。
 今は、まだ――
 不用意に揺さぶると、ハルシャは自分を拒んでしまう。
 ことんと、心に落とし込みながら、眉を寄せる。
 沈黙したまま、自分の心にわだかまる、黒い渦をしばらく整理する。
 やっと、落ち着きを取り戻してから、静かに歯に仕込んだ通話装置のスイッチを舌で入れた。

吉野ヨシノ
 呼びかけに、すぐさま声が返って来た。
『はい、竜司リュウジ様』
「ディー・マイルズ警部についてくれているのか」
『はい。今、横にいらっしゃいます』
「本当に手数をかける。感謝を伝えてくれ」
 吉野はマイルズ警部に言葉を伝えたらしい。いいよ、こちらも楽しんでいるという、マイルズ警部の声が聞こえた。
吉野ヨシノ
 リュウジの言葉に、吉野が意識を戻す。
『はい、何でしょうか。竜司リュウジ様』
「僕は今、オキュラ地域に戻っている。少し時間が出来たのだが、会うことは出来るかな」
『はい、もちろんです。今、ラグレン中央部におりますので、すぐにそちらに参ります。ご自宅になら、十数分で伺うことが出来ます』
「いや」
 リュウジは扉に向かい、手の中の鍵を使って、施錠する。服に、大事そうに鍵を入れる。
「ここは目立つ。そうだな――」
 扉を閉め、服に鍵をしまいながら、リュウジはにこっと笑って、言葉を続けた。
「警部がお泊り頂いている宿泊施設は、今いる場所から遠いか?」
『いいえ。飛行車で十分ほどです』
「なら、そこで落ち合おう。僕も今からそこへ行く」
『公共交通機関で、いらっしゃいますか』
「そうだな」
『それでしたら、ロンダルド駅においでください。そこの駐車スペースにて、飛行車でお待ちしております。ご一緒に宿泊施設に参りましょう』
 吉野の言葉を考えてから、リュウジは小さくうなずいた。
「そちらのほうが、タイムロスが少ないか。わかった吉野ヨシノ。今からすぐに、ここを出る」
『了解いたしました。ロンダルド駅の駐車スペースでお待ちいたしております』
「うん。頼む」
 リュウジは舌先で、通信を切った。
 ふっと息をする。
 扉を見つめてから、踵を返した。
 階段を降りながら、ラグレンの空を見上げる。
 今、ハルシャは借金によって身をがんじがらめにされ、ジェイ・ゼルに縛り付けられている。
 劣悪な環境での仕事を強いられることも、ジェイ・ゼルの相手をさせられるのも、ハルシャは運命として受け入れ、臆することなく立ち向かっている。
 その勇気と気高さを、リュウジは心に思う。
 空を見る。
 ハルシャには、この空を自由に飛ぶ翼が背にあることを、もう一度彼に思い出して欲しい。
 そのためになら、何でもしようと、リュウジは心に呟いていた。


 *


 地上から『エリュシオン』に上がるのは、二度目だった。
 ハルシャは、弾む息を落ち着かせ、ボードをしっかりと脇に抱えてから、つま先立ちになりながら、インターホンを押した。
『はい、総合受付、フロントです』
 やはり、躾の行き届いた『エリュシオン』にしては、尖った声で音声が響く。
 ハルシャは、自分はジェイ・ゼルの連れであること、彼はもうすでに部屋に入っているだろうことを、総合受付の係に告げる。
 名前を確かめられ、ハルシャ・ヴィンドースと名乗ると、途端に口調が柔らかくなった。
 ジェイ・ゼルの部屋番号を教えられ、チューブで降りる階を教えてもらった。
 以前の通り、少し待つとチューブが地上一階に降りて来て、しずしずと左右に開いていく。
 総合受付を通らずに、直接部屋に行くのは、初めてのことだった。
 ハルシャは、チューブに乗り込むと、教えられた階の番号を押した。
 すっと、チューブの扉が閉じて、上の階へと運ばれていく。
 昼を、少し過ぎた頃だ。
 ジェイ・ゼルはもう、昼食を済ましただろうか、とハルシャはボードを抱え直しながら、考えていた。
 夜明け前に、彼の口の中にサンドウィッチを運んでいたことが、何の前触れもなく浮かび、ハルシャは誰もいないチューブの中で、盛大に顔を赤らめた。
 バスローブのはだけやすい服を、懸命に掻き寄せながら、彼の口に食事を運び続けた。
 最後には、お礼にと、ジェイ・ゼルがハルシャの口に、切り取ったサンドウィッチを入れてくれる。
 惑星ガイアに生息するジャッカルという犬の一種は、きっと、仲間の絆が深いのだろう、と、ハルシャは思った。
 互いに食事を与え合う行為は、とても親密で信頼を深めるような気がした。

 料理を作るということは、相手の命を想うこと。

 サーシャが真っ直ぐに首を伸べて告げていた言葉が、ジェイ・ゼルの手から口に食事を運ばれている時、ハルシャの中に蘇った。
 二人で会う時は、いつもジェイ・ゼルはあらかじめ食事を用意して、ハルシャを迎えてくれていた。
 行為だけが目的ではなく、ハルシャの命そのものを大切に、彼は想っていてくれたのかもしれない。
 そんなことに、ふと気づく。
 ハルシャの口から手を引きながら、ジェイ・ゼルが静かに自分を見つめる。
 与えた食糧を、噛みしだくハルシャの口元を、じっと見つめ続ける。それが体に吸収され、命の基となることを祈るように。
 ハルシャがごくんと、サンドウィッチの一切れを飲み込むと、ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
 おいしいかい? ハルシャと、優しく問いかける。
 ハルシャは、なんとなく顔を赤らめながら、うなずくことしか出来なかった。

 思い出しているうちに、ジェイ・ゼルが待つ階にたどり着いた。
 ちんと、可愛らしい音がして、すっとチューブの扉が開く。
 ぎゅっと、ボードを握り直す。
 目の前にボルドーの落ち着いた色合いの絨毯が広がる。
 心臓を躍らせながら、ハルシャはチューブから一歩を踏み出した。


 *


「坊の勘は、正しいかもしれない、な」
 『アルティア・ホテル』の一室で、深々とソファーに腰を下ろしながら、マイルズ警部は言葉を天に呟いた。
「ダルシャとシェリアのヴィンドース夫妻は、謀殺されたようだな。爆発物の痕跡はなかった。おそらく兵器型のスクナ人が使われたのだろう」
 吉野から、午前中マイルズ警部は、ラグレンの警察に行って、身分証を見せながらヴィンドース夫妻爆死事件の詳細を閲覧してきたと聞いていた。
 わざわざ、ラグレンの警察に行ったのは、二重の意味があるらしい。
 一つは、純粋にヴィンドース夫妻の事件の情報を得たかったということ。
 そして、もう一つ。
 汎銀河帝国警察機構が、ヴィンドース夫妻の事件について調査をし始めたと、ラグレンの警察内部に、知らしめるため、だった。
 何か、動きがあるかもしれないと、ディー・マイルズ警部は考えていた。
 彼が帝星から伴ってきた部下五人は、マイルズ警部とは別口で、色々と動いているらしい。
 切れ者のマイルズ警部らしい、采配だった。
 鍛え抜かれた警部の勘が、今回の事件は裏があると嗅ぎ出したようだ。
 リュウジの前で静かに椅子に身を沈めながら、彼は言葉を続けた。

「スクナ人は、前世紀の遺物だ。
 が、あまりに優秀なので、誰も手離したがらないのが、事実だな。スクナ人は寿命がとてつもなく長い。メンテナスさえきちんとしていれば、三百年間は生き続ける――誰かが、一五〇年前、銀河帝国から撤廃令が出た時に、スクナ人を廃棄したと虚偽の申告をして、そのまま保有し、今も自分の都合で使い続けている可能性は高い。ことに、惑星トルディアは古い植民星だ。入植当時、スクナ人はまだ、違法ではなかった」

 惑星トルディアの中に、違法なスクナ人が存在している可能性を、マイルズ警部は指摘していた。

「で」
 ゆっくりと、身を起こしながら、マイルズ警部がリュウジを見つめた。
「問題は、どうして、ヴィンドース夫妻を殺害する必要があったか、ということだな」
 彼は膝に身を預けて、前かがみになった。
「ちょっと気になって、帝星を出る前に、ダルシャ・ヴィンドース夫妻のことを、調べてきた。
 実に健全な経歴の人たちだな。彼らが経営していたヴィンドラダンス貿易会社は、帝星の商社とも取引があったようだが、汚い手を一切使わない、非常に信頼できる取引相手だったと、皆が口を揃えて言っていた。五年前の死亡も、皆が残念がっていたよ。ヴィンドラダンス貿易会社は、競売にかけられ、権利を惑星シッドラドのパレ・ドラ商会が買い取った。
 信じられないほどの安い値段で、買い叩いて――」
 言葉を切ると、マイルズ警部は、静かに微笑んだ。
「パレ・ドラ商会の黒幕は、イズル・ザヒルの『ダイモン』だ」
 微笑んだまま、マイルズ警部は、リュウジの顔を見つめていた。
「さすがだな。そこまでの情報は、掴んでいたか。坊」

 リュウジも微笑んだ。
吉野ヨシノが、優秀なだけです。僕は、ぼうっと、待っていただけで」
 ふふと、警部が笑う。
「ヴィンドース夫妻の殺しには裏があると、見抜いたのは、坊だろう?」
 言葉は返さず、リュウジはただ、笑みを深めた。

 マイルズ警部は、ふうっと、息を吐いた。
「しかし。そんなに品性方向なヴィンドース夫妻が、何故殺されなくてはならないか。お前さんが言っていた、借金のことも気になった。
 で、短い時間だが、調べ上げた結果、一つの手がかりが見つかったんだ」
 マイルズ警部の、ヘイゼルの瞳が、リュウジを見つめていた。
「ダルシャ・ヴィンドースの祖先、ファルアス・ヴィンドースは、惑星トルディアの父と言われているそうだな」
 リュウジは静かに肯いた。
「ファルアス・ヴィンドースは惑星トルディアの大気から、有害な物質、トルディオキシンを発見した。それで人類は、惑星トルディアに入植が可能になった」
 暗唱するように言ってから、マイルズ警部は帽子を脱いで、頭をカリカリと掻いた。
「俺も、随分惑星トルディアの歴史に詳しくなったよ」

 リュウジは、にこっと笑みを返した。
 しばらく頭を掻き、手櫛で整えてから、マイルズ警部は帽子を優雅にかぶり直した。
「実はな、坊。
 ファルアス・ヴィンドースには、もう一つ、どうしても成し遂げたいことがあったんだよ。残念ながら、肺が病に侵されて、志半ばで死亡してしまったが」
 きゅっと後ろを下げて、帽子をあみだに被る。
「ファルアス・ヴィンドースの悲願。
 それが、惑星トルディアにある『偽水《ぎすい》』を、人類の飲料水として、加工できないか、というものだったんだ」

 リュウジは瞬きをした。
「現在、惑星トルディアの飲料水は、ほとんど惑星ガイアからもたらされたものだ。そのために、大変に高価だ。
 だが、惑星トルディアの埋蔵水を使うことが出来れば、人類はもっと豊かな生活を送ることが出来る。
 それが、ファルアス・ヴィンドースの、果たせなかった夢だ」

 ふっと、聞かされたことが、ハルシャの姿と重なった。
 自分の利益のためでなく、皆が平和で幸せな生活を送るために、自分の人生を捧げて悔いのない生き方。
 その高潔さを、遠い子孫であるハルシャ・ヴィンドースの中に、リュウジは感じ取った。
 やはり、彼は。
 惑星トルディアの父と呼ばれた人物の、子孫なのだ。

 沈黙の後、マイルズ警部は、口を開いた。
「ハルシャの父親、ダルシャ・ヴィンドースは、その祖先の夢を、実現させようと、古くから偽水の精製に取り組んでいたようだ。
 彼は、帝星の研究機関に、莫大な出資をして、偽水を飲料水に変換する方法を調べさせていたんだよ。
 結果――研究機関はついに偽水を純粋な水に分解する手段を見出した。
 七年前のことだ。
 これで、水不足によって、幼い子が、脱水症状で死ななくて済む――研究機関から報告を受けたダルシャ・ヴィンドースは、開口一番、そう言ったそうだ。
 さらに一年をかけて、確実な成果を得るようになってから、ダルシャ・ヴィンドースは、本格的な工場を惑星トルディアに作り、偽水を飲料水にするシステムを、構築しようとした。
 その資金が――恐らく、ジェイ・ゼルから借りた、一四七万ヴォゼルだ」

 リュウジは、藍色の瞳で、マイルズ警部を見つめ続けていた。
「では。その資金は、今。どこに?」
 問いかけに、瞬きをしてから、警部は応えた。
「こっちに来なくてはならなくて、時間切れになり、資金の所在はまだ、掴めていない。だが、帝星に残してきた部下に、引き続き調査を依頼している。
 何かが掴めたら、連絡をしてくれる。
 偽水を飲料水に変換する機械の開発に回したのかもしれない。まだ、結果は解らないが、資金がまだ、動いている可能性はある」

 一四七万ヴォゼル。
 惑星トルディアに、豊かな飲料水をもたらすために、ハルシャの父が借り入れを決断した、金額。
 急いで資金が必要となったのだろう。
 吉野がジェイ・ゼルの会社の、メイン電脳に忍び込んで、掴み出して来たデータの中に、ハルシャが五年前所有していた不動産の中に、別荘地というのがあった。建物がない、たんなる敷地だった。
 もしかしたら、それが、工場用に転用される可能性があったのかもしれない。
 幼い子が、脱水症状で死ななくて済む。
 成果を聞かされた時、ハルシャの父親は、利益ではなく、命を守れることを、喜んだ。
 私財を投げうって、惑星トルディアの未来のために、懸命に努力をしていた人を、誰かが無慈悲に排除したのだ。

「惑星トルディアの飲料水は」
 リュウジは静かに口を開くと、言葉を続けた。
「どこが、扱っているのですか」
 その質問に、ゆっくりと、マイルズ警部が微笑んだ。
「さすがだ、坊。
 目の付け所がいい。俺もまず、それを考えた。
 善意でダルシャ・ヴィンドースが、偽水を飲料水に変えたとすると、飲料水の価格が下がる。
 困るのは、今、惑星トルディアで飲料水を扱い、利益を得ている人間だ」

 ヘイゼルの目が、底光りした。
「坊。惑星トルディアでは、飲料水は、政府の専売物だ。
 高い関税をかけ、ここではラグレン自治政府が売買の一切を管理している。
 飲料水の売り上げは、全部政府に流れ込んでいるんだ――
 ところが、偽水は採掘権さえあれば入手できる。
 ダルシャ・ヴィンドースが偽水から飲料水を作って、惑星トルディアの人々を潤すようになって一番困るのは――」

 静かに、ディー・マイルズ警部は微笑んだ。
「ラグレン政府だよ。坊」





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