朝。
職場に向かうリュウジの態度は、いつもと何一つ変わらなかった。
夜明けの光の中で交わした会話は、彼の言葉通り、朝日に溶ける夢であったかのように。
リュウジは、古着屋で手に入れた作業着を着ていた。
カーキ色のシンプルな作業用の上着に、上より少し濃い色目の同じくカーキのズボンだ。
サイズの合っている服は、リュウジによく似合っている。
サーシャは服のセンスがいいと、常々ハルシャは思っていた。
同じような服でも、微妙に違うらしい。その差異を敏感に見抜いて、サーシャはその人に一番似合うデザインの物を、大量の古着の中から、的確に選び出す。
こっちの襟の方が、お兄ちゃんには似合うよ。
と、九歳の頃から、彼女は大人びた口調で、服をハルシャのために選んでくれていた。
ふと。
メリーウェザ医師が譲り渡してくれた、濃色のドレスが、サーシャにとても似合っていたことを、ハルシャは思い出した。
どこに出しても恥ずかしくないぐらいの、気品にあふれる姿だった。
昔――
両親とそろって、色々な式典に参加する時、母は美しく装っていた。
ヴィンドース家に代々受け継がれてきた宝石を首と耳元に飾り、優美な絹の服をまとう姿は、会場の誰よりも美しかった。
子ども心に、母の艶やかで華やかな姿に、見惚れていたのを思い出す。
母とよく似ているサーシャも、これから先、美しく育っていくだろうと痛みを感じながらハルシャは思った。
女性として一番きれいな時期を――このままだと、サーシャはハルシャのために、働き続ける人生を選んでしまうかもしれない。
聡く、優しい子だった。
何のために収入のほとんどをジェイ・ゼルに支払っているのか、隠していても気づく日がいつか来る。
両親の借金なら、兄だけには背負わせないとサーシャは言い張るだろう。
そういう子だった。
予測できる未来が、不意に胸を打つ。
かつて、母を彩っていた、家宝の宝飾品はもうない。
競売にかけられて、誰かの手に渡ってしまった。
ヴィンドース家の長女として、サーシャが引き継ぐはずだった、全てのものも。
今は人手に渡り、取り戻すすべすらない。
彼女が唯一遺産として受け取った、豊かな文才と、華やかな容姿と、優しい心根も、借金を返済する生活の中で磨滅してしまうのだろうか。
それが、兄として、何よりも辛かった。
「――と、サーシャが言っていました」
リュウジの声が、突然、耳に飛び込んできた。
はっと、ハルシャは意識を彼に向けた。
さっきから、ずっとリュウジは自分に向けて話しかけてきてくれたようだった。
自分は考えにふけるあまり、耳半ばで聞いて、ほとんど内容が理解できていなかった。
「すまない、リュウジ。今、何と?」
ハルシャの申し訳なさそうな顔を見て、リュウジは優しく微笑んだ。
「この前食べたお菓子がとても美味しかったようで、自分でも作れるかな? とサーシャが僕に問いかけてくれました。
そこで、材料の名を上げると、ちょっと高いね、とためらっていましたが、おこずかいを貯めて、その内お菓子作りにも、挑戦してみたいと、サーシャが言っていました。僕が話していたのは、それだけです」
笑みが深まる。
「考え事を中断させて、すみません」
「いや。こちらこそ、きちんと聞いていなくてすまなかった」
お菓子作り。
母が、よくオーブンの中から、楽しそうに出来立てのお菓子を出していたのを、ハルシャは思い出した。
「そうか」
ハルシャは、バスの窓から、ラグレンの街並みを見つめる。
「母も、お菓子作りは得意だった。サーシャは母に似ているから、上手かもしれない」
甘いお菓子のにおいと、花の香り。
それが、母を想うと鼻孔に蘇る。
窓の外へ視線を向けるハルシャに、
「ドルディスタ・メリーウェザのところなら、調理器具も、冷蔵装置もありますから、そこで作らせてもらったらどうか、と進言しておきました」
冷蔵装置?
ハルシャは思わず問い返した。
「メリーウェザ医師の冷蔵装置には、医薬品やワクチンが保管されているはずだ」
「ええ」
リュウジがにこっと笑う。
「強力なので、冷菓を作るのに、最適ですね」
いや。
そんな医薬品が入っている冷蔵装置の中で、食品を固めていも良いかと言いたかったのだが、リュウジは気にしていなようだ。
「確か、人力でもアイスクリームは作れたはずです」
一瞬遠い目になる。
「それか、工場長にお願いして、捨てる様な部品から、アイスクリーム製造装置を作ってみましょうか」
今朝、ジェイ・ゼルが持たせてくれた氷菓を、サーシャは至福の顔で食べていた。リュウジはそれが忘れられないのだろう。
ハルシャは首を振り、やんわりとリュウジの考えを修正する。
「私的なことを、あまり工場に持ち込まない方がいい。作るのなら、この前行った廃材屋で部品を探した方が良いだろう」
「ああ、そうですね」
リュウジは明るい顔になった。
「それはとても良い考えです。ハルシャ」
すでに頭の中で設計図を引き始めたような顔をしながら、リュウジがこくんと一つうなずいた。
作業場にたどり着いたとき、ハルシャは思わず足を止めた。
隣で、リュウジも立ち止まる。
荒らされていた。
昨日、きれいに整理して去った作業場は、誰かによって乱雑に乱されている。
書類が床に散り、作りかけの部品が、分解されていた。
悪意のある行為だ。
ハルシャは、無言で歩を進め、床に落ちていた書類を集め始めた。
しばらく黙ってハルシャの動きを見ていたリュウジは短く鋭く息を吐いてから、同じように書類を拾い始めた。
「工場長に、言いますか?」
リュウジが、低めた声で言う。
「作業の邪魔をされれば、業績が落ちますと、僕から申し上げます」
ハルシャは、すぐに答えられなかった。
個人的な攻撃は今までもあった。ロッカーに落書きをされたり物を隠されたり。
だが。
作業を妨害するようなことは、なかった。
誰がしたかはわからないが、理由を色々とハルシャは考える。
これまでと、今日と。
変わったことは一つある。
工場長がシヴォルトからガルガーになったことだ。
シヴォルトは、ジェイ・ゼルに対して絶対的な忠誠を誓っていた。
彼個人からは、屈辱的な言葉をかけられたが、ジェイ・ゼルの囲われ者であるハルシャに対して彼はある程度の融通を利かせてくれていた。
ジェイ・ゼルの機嫌を、損ねたくないという意味もあったのだろう。
だが。
ガルガーには、ジェイ・ゼルに対して、仕事の雇い主以上の関係性はないようだった。
それを、感じ取って、誰かがハルシャに嫌がらせをしたのかもしれない。
シヴォルトがいないことを良いことにして。
「必要ない」
ハルシャは、短く言った。
自分が、シヴォルトのことをジェイ・ゼルに訴え、彼は行動に移してくれた。
異動という形で、シヴォルトを取り除いてくれた。
ジェイ・ゼルは、過分と言える配慮をハルシャに与えてくれたのだ。
それで何かあったとすれば、自分の手で解決しなくてはならない。
借金が続く限り自分はここで働かざるを得ない。
人間関係のトラブルも、自力で何とかするしかない。
ハルシャの言葉を受けて、リュウジは黙り込んだ。
それ以上、何も言わない。
黙しままま、二人で、ひたすら復帰作業を続ける。
昨日も、リュウジの忠告に従って、大切なデータは持ち帰っていた。
それだけが、幸いだった。
書類を拾い、分解された部品を机の上に並べ、欠損がないのを確かめる。
単に落とされていただけで、書類も失われているページはなかった。
「鍵のかかる場所に、収納してから帰りましょう」
リュウジが、書類を順番に並べながら、呟いた。
「出来る配慮はしましょう。それでも――もし、悪意が止まないようなら」
リュウジが書類から顔を上げて、ハルシャへ眼差しを向けた。
「ハルシャがどんなに止めても、僕は工場長に訴えます」
ハルシャは、リュウジの顔を見つめる。
瞬きを一つする。
「リュウジ」
ハルシャは、静かな声で小さく告げた。
「工場長は、知っているかもしれないぞ」
わずかに、リュウジが目を見開いた。
ハルシャは、微笑んだ。
「必要ないと言ったのは、そういう意味だ」
リュウジの真っ直ぐな目を、見続けることが出来ずに、ハルシャは視線をそらした。
「部品を組み立てよう。今日はそこからスタートだな」
ぎゅっと、リュウジが手を握りしめた。
「どうして」
押し殺した、声でリュウジが呟く。
「こんな職場に、居なくてはいけないのですか、ハルシャ」
ハルシャは、さっと周りを見渡した。
聞かれてはまずいと思ったのだ。だが、周囲に人は誰も居なかった。ハルシャたちの困っている様子を、どこかで眺めているかもしれないが、とりあえず姿は見えない。
「リュウジ」
「僕なら、辞めています」
ハルシャは、リュウジの腕に触れた。
微かに、震えが伝わってくる。
「そういう、契約なんだ――」
ひそめた声で、ハルシャはリュウジの耳元に呟く。
借金のことを話している今なら、彼に本当のことが言える。
「借金の返済が終了するまで、私はここで働くという契約を最初にジェイ・ゼルと交わした。もし、途中で辞めれば、違約金を支払わなくてはならない」
はっと、リュウジが眼差しをハルシャに向ける。
藍色の瞳が、真っ直ぐに自分を射る。
「だから、辞められない。最初に本当のことを伝えられなくてすまなかった」
ぽん、ぽんとリュウジの腕を軽く叩いてからハルシャは身を離した。
リュウジの手から、書類をするっと、抜き取るようにして受け取る。
机に置いていると
「そういうことですか、ハルシャ」
と、静かな声で、リュウジが呟いた。
「あなたがどこにも行かないように、あらゆる手を使って、自分に縛り付けているのですね、ジェイ・ゼルは」
非難の籠る口調に、ハルシャはなぜか傷つくのを覚えた。
「割のいい仕事を与えてくれているだけだ。他では年間にこれほど収入を得ることは出来ない」
と。
自分でも思わぬ鋭さで、ハルシャは言葉を放っていた。
リュウジは何かを言いかけたが、口をつぐむと静かに微笑んだ。
「ハルシャは――ジェイ・ゼルのことを、悪く言われたくないのですね」
正鵠を、いきなりリュウジは射てきた。
一瞬視線を沈めてから、彼は顔を上げた。
「余計なことで手間取りましたね、大変なタイムロスです。この遅れを取り戻すためにも、今日は作業を手早く行いましょうね、ハルシャ」
気持ちを切り替えるように言うと、リュウジはテキパキと動き出した。
たぶん。
どんな他人の悪意ある妨害よりも、たった一言、リュウジにジェイ・ゼルを非難される方が自分にはきついのだろう。
今も、その衝撃が心に響いている。
十五の時。
正確な意味も理解出来ずに交わした契約書。
自分のサインのある正式な文書。それが、この仕事に自分を縛り付ける。
それがジェイ・ゼルの仕組んだことだと、誰よりもハルシャが、良くわかっていた。ジェイ・ゼルが、ハルシャの人生の全てを、監視下に置いておくために。
わかっていた。
けれど。
事実をリュウジに指摘されるのがとても辛かった。
未来を奪われていることを、彼に気付かれることが。
とても。
苦しかった。
自由に――なりたくは、ないですか。ハルシャ
薄闇の中で呟かれた、静かなリュウジの言葉が耳に蘇る。
ハルシャの境遇を聞きながら、彼は静かに涙を流してくれていた。
誇りに思うと、力強い言葉で、醜い現実を告げたハルシャの心を、包んでくれた。
置かれた自分の立場を、リュウジは我がことのように、考えてくれている。
音信不通になっている、親戚たちのことを、ハルシャは思った。
身内であるのに、彼らは借金の総額に怖気を起こし、ハルシャたちを冷酷に切って捨てた。せめて、サーシャだけでも引き取ってほしいというハルシャの懇願も、無残に打ち砕かれた。
なのに。
リュウジは、自身が泥をかぶりながらも、一緒に居てくれると言ってくれた。
自分の家族は、ハルシャとサーシャだと。
彼の想いが、身が震えるほどに、嬉しかった。
辛い生を強いてしまったハルシャのことを、リュウジは許して受け入れてくれていた。
頭を一つ振ると、ハルシャは自身の気持ちを切り替えた。
納期は待ってくれない。
やるしかない。
どんな悪意が自分を取り巻いても、負けるわけにはいかない。
自分は借金を返しきる。
両親の汚名を雪ぐために。
気持ちを改めて、ハルシャはすでに部品を組み立て始めていたリュウジの横に立ち、一緒に作業を始めた。
リュウジが視線を向けて、にこっと笑みを与えてくれる。
ふっと、ハルシャも笑みを浮かべると、作業を続けた。
リュウジは、一番肝心な部品は、人がいない時に作りたい、と言い出した。
深夜。
人気のない工場で。
出来れば、三日ほど工場に泊まり込みたいと、彼はしばらく計算した後、ハルシャを呼んで言ったのだった。
そうなると、サーシャをメリーウェザ医師に預かってもらう必要がある。
時期は相談しようと、ハルシャはリュウジの示したスケジュールを見ながら、答える。
今回のことで、途中で妨害が入ることを危惧しているのだろう。
「徐熱に時間がかかります。この間も、出来れば工場に待機していたいです」
リュウジの言葉にうなずいた瞬間、不意に左手首の通話装置が震えた。
音に、ハルシャとリュウジと同時に気付く。
リュウジの顔から、笑みが消えた。
表示に、マスターと出ている。
ハルシャは、戸惑いながらも、リュウジに席を外す詫びを言って、彼から離れた。
リュウジから距離をとって、背中を向けながら「通話」の画面の文字に触れる。
「私だ、ハルシャ。今は工場か?」
静かなジェイ・ゼルの声が響いた。
口を近づけ、
「そうだ、ジェイ・ゼル」
と応える、ハルシャの声と心臓が震えた。
ジェイ・ゼルだ。
彼の声だ。
身の内に、歓喜が湧き上がる。
一瞬の間の後
「身体は、大丈夫か」
と、低めた声でジェイ・ゼルが問いかけた。
正直、下腹部が重くだるいが、ハルシャは
「大丈夫だ」
と、努めて平然と言ってのけた。
何の用だろう。
いつもなら、ジェイ・ゼルは数日呼び出しを空ける。
そう思っているハルシャの耳に
「今日の午後一番で、『エリュシオン』に来てくれるか、ハルシャ」
と、ジェイ・ゼルの声が響いた。
今日。
この午後、一番に。
とても急な呼び出しだ。ハルシャは、一瞬戸惑う。
「ガルガー工場長には、私から話をしておく」
ジェイ・ゼルの声が、淡々と告げる。
「すまないが、迎えを行かせることが出来ない。昨日のように、自力で『エリュシオン』まで来てくれるかな、ハルシャ」
急なことだ。
だが、ジェイ・ゼルが呼んでいるのだ。
行くしかない。
「わかった、ジェイ・ゼル。すぐに準備をする」
ガルガー工場に話をしておいてくれるのは、ありがたかった。
「待っていてくれ」
ハルシャの言葉に、すぐにジェイ・ゼルは答えなかった。
長い沈黙の後、
「ボードで来るなら、気を付けてくるんだぞ、ハルシャ」
と、やや硬い声で告げてから通話が切れた。
何となく、いつもと違う感じがした。
はっと、お土産にもらった冷菓の礼も言っていないことに、ハルシャは気付く。
ジェイ・ゼルは、急いでいるようだった。
用事の中で、少し抜けて、自分に逢ってくれようとしているのかもしれない。
切れた後の通話装置を、ハルシャはそっと撫でた。
ジェイ・ゼルに、逢える。
そのことを噛み締めながら、ハルシャは後ろで会話が終わるのを待っていた、リュウジへ顔を向けた。
彼は静かな表情で、ハルシャの背中を見守っていた。
冷静な彼の様子に一瞬ひるみながらも、ハルシャは伝達せねばと思い言葉を絞り出した。
「すまないリュウジ。急に出なくてはならなくなった」
近づき、彼の座る椅子の側で、午後一に逢う用事が出来たことを、告げる。
頬が微かに赤らむのが、止められなかった。
じっと見つめた後、リュウジは静かにうなずいた。
「なら、ここをもう、撤収しましょう。
ハルシャが工場を出るなら、僕も一緒に帰ります。
見習いの身なので、ハルシャが居なくては仕事になりませんから」
と、さっさと電脳のデータを保存しながら言う。
「一度、家に戻られますか?」
テキパキとしたリュウジの言葉に、少し圧倒されながら
「あ、ああ。そのつもりだ。ボードを取りに行かなくてはならない」
と、いうハルシャの言葉に、リュウジが考え込む。
「そうですか」
腕を組んで、ふむと、眉を寄せる。
「今日、サーシャは飲食店のアルバイトでしたね」
不意に、彼は明るい表情で顔を上げた。
「いったん家に戻ってから、僕はドルディスタ・メリーウェザのところへ、手の消毒がてら伺って、そのままそこで彼女のお手伝いをして参ります。最近患者さんが増えてきて、ドルディスタもご苦労されているようなので」
午後から、自分の身の振り方を、リュウジなりに考えたようだ。
確かに。
ハルシャの居ない職場に、リュウジを一人放置しておくは、とても心配だった。
工場長に理由を説明して、二人とも早く抜けさせていただこうと、ハルシャは心を決める。
「そうだな。それが良いかもしれない」
ハルシャは、静かに肯く。
メリーウェザ医師のところには、服を取りに行く予定をしていた。
リュウジが居るなら、帰りの時間によっては、メリーウェザ医師のところへ寄ってもいいかもしれない。
心の中で、あれこれと計画を立てる。
昼の呼び出し――以前は紫の森へと、ジェイ・ゼルは連れて行ってくれた。
もしかしたら、何か思惑があるのだろうか。
眠りから覚めた後の、ジェイ・ゼルの緑の瞳のしっとりとした輝きが、何の前触れもなく記憶に蘇ってきて頬が赤らんできた。
リュウジに見られたくなくて、顔を背けると撤収作業に取り掛かる。
以前はジェイ・ゼルの呼び出しによって作業を中断されることが腹立たしかった。
都合で振りまわされることが所有を示されているようで、嫌だった。
だが。
今はどうして――
こんなに胸が高鳴るほど、嬉しいのだろう。
自分の変化に、自分自身で戸惑いながら、ハルシャは午後からの呼び出しに備えて、データを電脳ごと、鞄に入れていた。
*
通話を切った後、ジェイ・ゼルはしばらく、そのままの姿で動きを止めていた。
彼の前で、音声を切った画像が流れていた。
朝、シヴォルトが彼の事務所に、慇懃な態度で届けてくれた画像だった。
中には、ハルシャの姿が収められていた。
サーシャと、ハルシャと。
二人の側に、見慣れない黒髪の青年が居た。
彼らは親しげに会話を交わしながら、三人並んでオキュラ地域の道を歩いていく。
黙したまま、ジェイ・ゼルは画像へ目を向ける。
サーシャが見上げて語り掛けたことに、微笑みながら、黒髪の青年が答える。
声を上げて、サーシャがその言葉に笑いを返していた。
黒髪の青年が微笑んだまま、ハルシャにも声をかける。
ハルシャは、小さく笑って、首を振りながら、返事をしていた。
その笑顔をジェイ・ゼルは、音声の途絶えた話装置を耳に当てたまま見つめ続ける。
三人は、打ち解けた様子で、歩いていく。
黒髪の青年が手にしていた荷物を、ハルシャがひょいと、上からさらうようにして手を伸ばして取りあげた。
大丈夫です、自分が持ちます、と、黒髪の青年が言ったようだが、ハルシャは首を振って、紙袋をしっかりと抱え直した。
ハルシャは、優しく微笑んでいた。
やがて――
三人は、オキュラ地域の、ジェイ・ゼルが彼ら兄妹に斡旋した集合住宅に向かう。
階段を昇っていき、三人は寄り添うようにして、部屋の前に立った。
荷物を持っていたため、ハルシャが片手で鍵を開けた。
そのまま開いた扉の中に、サーシャが入る。
会話をしながら黒髪の青年が入り、鍵を服にしまいながらハルシャが続いた。
ハルシャが部屋の中に消えてから、静かに扉が閉じられた。
彼らは、三人で、部屋の中に入っていったのだ。
朝、シヴォルトが画像の記録装置を渡しながら、ジェイ・ゼルに告げた言葉が、彼の耳に蘇る。
ジェイ・ゼル様。
オオタキ・リュウジとハルシャは、今、一緒に暮らしているようです。
その証拠が、この画像です。
私がロンダルへたまたま出向いていた時、偶然彼らを見かけました。
思わず我が目を疑いました。
ハルシャ・ヴィンドースは、ジェイ・ゼル様に、これほどのご恩腸を受けながら何と勝手なことを、と。
ご報告せねばならぬと、慌てて動画を撮り続けました。
ジェイ・ゼル様。
扉が閉じられた後、オオタキ・リュウジは出てきませんでした。
彼らは同じ部屋で暮らし、ハルシャは朝、オオタキ・リュウジを伴って職場に来ていると思われます。
ジェイ・ゼルは、もう、何十回も見直した、その画像を前に沈黙する。
耳に当てていた通話装置から、無邪気なハルシャの声が響いていた。
何の悪意もない、真っ直ぐな彼の声。
ハルシャの声を思いながら、ジェイ・ゼルは、ゆっくりと通話装置を耳から外した。
机の上に、静かに置く。
手を緩めると、そのままそこで、動きを止めた。
深い吐息と共に、震える手を上げて、彼は手の平で目を覆った。
浅い呼吸を繰り返しながら、内側の深い痛みに耐えるように、ジェイ・ゼルは眉を寄せ、目を閉じる。
自動再生を指定している画像が、再び最初からハルシャ達の姿を流し始めた。
『エリュシオン』の一室で、ジェイ・ゼルはきつく目を閉じたまま、ただ、黙し続けた。