夜明けを迎えたラグレンの街を、ネルソンの運転する飛行車で滑っていく。
今回も、オキュラ地域まで送ってくれると、ジェイ・ゼルは思い遣りを見せてくれる。
飛行車の後部座席で、ジェイ・ゼルの腕に包まれながら、ハルシャはラグレンの街並みを見つめていた。
もうすぐ。
別れの時が来る。
口数が少なくなる。
押し当てたジェイ・ゼルの胸から、彼の鼓動が聞こえる。
その音に耳を澄ませて、ハルシャは黙していた。
ジェイ・ゼルは約束通り、保冷箱に詰められた、サーシャへのお土産を持たせてくれている。
それを見た時の、妹の笑顔を懸命に思い描こうとする。
きっと喜ぶだろう。
嬉しいはずのことを想像しても、胸の奥に渦巻く、別離の寂寥が消えない。
小さく、ジェイ・ゼルが身じろぎした。
「もし」
静かな声が上から響いた。
ハルシャは、彼の顔へ視線を向ける。
ジェイ・ゼルは、前を真っ直ぐに見ていた。
もし?
仮定の言葉を呟きながら、彼は中々続きを言わなかった。
見つめるハルシャに、視線が落ちてくる。
「もし――」
灰色の眼が細められた。
「一緒に君と暮らしたら、こんな時間を迎えなくていいんだな」
ハルシャは、瞬きをした。
一緒に暮らす。
ジェイ・ゼルと?
言葉の意味が、すぐに理解出来なかった。
身を伸ばしたハルシャの髪に、ジェイ・ゼルが触れた。
「サーシャと一緒に三人で暮らしたら、さぞ、賑やかだろうな」
黙したまま、ハルシャはジェイ・ゼルの瞳を見つめ続ける。
さらっと、髪が撫でられる。
「私も、心配ばかりせずにすむ」
滴り落ちた言葉の静けさが、ハルシャの胸を打った。
考える以上に、ジェイ・ゼルは常に自分のことに、意識を向けていてくれているのかもしれない。
ジェイ・ゼルが、視線を伏せた。
「夢のような話だな。ハルシャ」
口にしながら、自分自身の手で砕き去ってしまうように、ジェイ・ゼルが呟いた。
視線を伏せたままで、頭を撫でていた手が、不意にハルシャを引き寄せて腕に包んだ。
「君を、行かせたくない」
小さな、呟きだった。
ハルシャにしか、聞こえない、彼の、本当の言葉。
「サーシャが、待っている」
彼の温もりに向けて、ハルシャは呟いた。
「すまない、ジェイ・ゼル」
返事の代わりに、唇が覆われた。
わかっている。
君が一番大切なのは、妹のサーシャだ。
彼女のために、君はどんな恥辱にも、逃げずに立ち向かっている。
わかっているよ、ハルシャ。
サーシャから君を、引き離しはしないよ。
合わせた唇から、彼の想いが伝わってくる。
ハルシャのことを、ジェイ・ゼルは理解してくれている。
だから、お土産に、サーシャが喜ぶものを選んでくれたのだ。
サーシャの幸せが、ハルシャの幸せだと知っているから。
それでも。
行かせたくないと言った、彼の気持ちが痛かった。
夜明けを滑りながら、彼の息遣いを感じる。
唇を離しながらジェイ・ゼルが呟いた。
「この温もりを、忘れないでくれ。ハルシャ」
私は、忘れないから。
言葉にならない、彼の想いが聞こえる。
「忘れない、ジェイ・ゼル」
瞳を見つめる。
永遠だ、と。
ハルシャはまた、思った。
星々にすら、最期の時があり、永遠ではないというのに。
彼の中に、ハルシャは永遠を見た様な気がした。
ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
顎を捕えて、軽く唇を触れる。
「約束の証文だ」
まるで、契約が更新されたように、彼が呟く。
ハルシャは、後で気づいていた。
ジェイ・ゼルと部屋を出て、会計を済ます彼の背を見つめながら、ふと、彼の望むことを拒否してはならないと最初に彼が言った言葉を、自分が破っていたことに。
口に含んだものを、ジェイ・ゼルに食べさせてくれという言葉を、自分は拒んだ。無理だとにべもなく。
だが、ジェイ・ゼルは強制せずに許してくれていた。
そのことに、今更ながら気付いたのだ。
何かが、変化してきているような気がした。
ふわりと、飛行車がオキュラ地域に着いた。
「また、連絡をする」
ハルシャの髪を撫でながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「待っている」
ハルシャは、にこっと笑って、ジェイ・ゼルが渡してくれたお土産を手に持った。
「サーシャのことを考えてくれて、ありがとう」
ネルソンにも礼を言い、ハルシャは扉を開けた。
振り向いたら、きっと寂しさに負けてしまう。
「連絡を待っている、ジェイ・ゼル」
それだけを言うと、懸命に足を前に出した。
ジェイ・ゼルは止めなかった。
外に出て、丁寧に扉を閉める。
中にいるジェイ・ゼルが、自分を見つめていた。
数歩下がり、小さく手を振る。
ふっと、ジェイ・ゼルが微笑んだ。
飛行車が浮かび上がり、ジェイ・ゼルを乗せて去っていく。
ハルシャは、黒い車体が夜明けの空に消えるのを、じっと見守っていた。
ふっと息を吐き、ボードの駆動部を入れると、静かに足を乗せる。
軽く蹴って、家路を急ぐ。
一緒に暮らす。
思いもかけないことを、ジェイ・ゼルは言った。
可能性を考えたこともなかった。
もしそうなら――
夜眠る時と、朝目覚める時。
いつもジェイ・ゼルの顔を見つめていられる。
だが。
そうなると、サーシャにどう説明すればいいのか、ハルシャは解らなかった。
もう、彼女も色々理解できる年頃になっている。
昨夜も、説得するのに苦労した。リュウジが助け舟を出して、納得させてくれたが、今後は考えなくてはならない。
現実的ではない。
自分はジェイ・ゼルに、借金を負う身だ。
実現不可能だと、ジェイ・ゼルが一番知っている。
彼は冷徹な計算を難なくこなす。
なのに。
彼はつい、口走ってしまったのだ。
息が苦しい。
彼が恋しくて、今も、息が出来ない。
さっき別れたばかりなのに、もう彼に逢いたかった。
闇がまだ覆う夜明けのオキュラ地域を、ハルシャは、滑っていく。
自宅の前でボードを大きく回転させて、きゅっと止まる。
足で跳ねて手で受け止めた時、
「すみませんね」
と、突然声がかけられた。
完全に油断していた。
ここはオキュラ地域で、そして、闇が支配している時刻だ。
何も答えずに、ハルシャは鋭い眼差しを、声のした方向に向けた。
声をかけていきなり襲い掛かるのが、ここでの常套手段だった。
はかない街灯の光の下に、中年らしき男性の姿があった。
ハルシャは、ボードを脇に抱えて持ち直した。
見るからに、旅行者だった。
「迷ったのか」
ハルシャは、開口一番、彼に問いかけた。
「上に戻る場所へ案内する。ついてきてくれ」
リュウジのように、何も知らずにオキュラ地域に迷い込んでしまったのかもしれない。
「ここは旅行者には危険な場所だ。早く去った方がいい」
歩き始めようとしたハルシャに、
「ご親切にどうも。ですが、ちょっとここに用事がありましてね」
と、男性が口を開いた。
ハルシャは、足を止めて、後ろを振り向いた。
上質そうな帽子を軽く上げて、男性が挨拶をする。
「帝星から来た、ディー・マイルズと言います。実は、人を探していましてね」
ハルシャは、自分が驚かないように、必死に自制する。
「人、を?」
素早く人柄を確認する。
上質な服を着ている。そして、物腰に隙が無い。
ジェイ・ゼルと同じぐらいの身長だが、身体に幅があり、武闘派の雰囲気が漂っている。
少しでも物を知る者なら、うかつに手を出せない強面の雰囲気が、全身からゆらりと漂っていた。
「はい、旅行者でね」
帽子をかぶり直しながら、彼は静かにハルシャに眼差しを注ぐ。
鋭い、物事の奥底を見通すような、視線だった。
「帝星からここへ来た、黒髪の青年で……何日か前から、行方不明になっているんですよ」
どきっと、ハルシャの中に、心臓の音が聞こえた。
リュウジのことだ。
彼はリュウジを探して、帝星から惑星トルディアへ来たのだ。
どっどっどと、心臓が躍る。
必死に平静を装うハルシャの耳に、静かな彼の問いかけが響いた。
「早朝から申し訳ありませんが、この辺りで、帝星から来た黒髪の青年を、見かけませんでしたか?」
*
「すまないね、ネルソン」
ジェイ・ゼルは窓の外を見つめながら、呟いた。
「勝手で、君を振り回してしまったね」
「いいえ、ジェイ・ゼル様」
静かなネルソンの声が返す。
「おくたびれではありませんか、ジェイ・ゼル様。このまま、会社で良いのですか? ご自宅のセイラメでなくてもよろしいですか」
思いやりにあふれる彼の言葉に、ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
「ありがとう。本来なら、すぐに仕事にかからなければならないところを、私情で融通させてしまったからね」
深く座席に身を沈めて、天を仰ぐ。
「ダナドスたちに呆れられる間に、きちんと責務を果たしておくよ」
一瞬の間の後、ネルソンは詫びるように言葉を口にした。
「余計なことを申し上げました。会社に参ります。フェルズさんたちから、お待ちしているとご伝言を受けています」
「朝から、気の毒なことだ」
ジェイ・ゼルの呟きに、ネルソンが静かに返す。
「宇宙酔いの調整に、丁度良いと仰っていました」
宇宙に滞在すると、脳が混乱するのか、軽い不眠症になることがある。
マシュー・フェルズはことに酔いやすい。それでも、律儀にジェイ・ゼルに同行してくれる。
「彼らしいね」
ジェイ・ゼルは笑いながら言った。
どこかに利益を見つけ出すのが、マシュー・フェルズの特徴だった。
ジェイ・ゼルは、笑いを収めると、天を仰ぎ続けた。
自分が、思わず口からこぼしてしまったことを、考え続ける。
去るハルシャの背を、見送る必要がないということ。それが、どれほど自分にとって大切かと、今日、思い知った。
どうかしている。
一緒に暮らしたいなど。
第一、サーシャにどう説明するのだ。
君の兄は、私の恋人だと――ハルシャが一番隠したがっていることを、可愛い妹に突き付けなくてはならない。
あまりにも、非現実的だ。
それを、考えてしまうほど、自分はどうやら、追い詰められているようだ。
はじめから、許されていない事であるのに。
本当に。
ハルシャがからむと、自分はとても、愚かで不器用な人間になるらしい。
冷静な判断が、全く出来なくなる。
考え込むジェイ・ゼルの、通話装置が不意に震えた。
はっと、服に手を入れ、機械を乱雑に取り出す。
ハルシャか。
と、一瞬、思ってしまったのだ。
あり得ないことだった。
通話装置の画面の表示は、彼が異動させたシヴォルトの名を告げていた。
シヴォルト?
こんな早朝に、何の用だ。
思いながら、ジェイ・ゼルは通話を繋ぐ。
「ジェイ・ゼルだ。どうした、シヴォルト」
機械の先にいるシヴォルトが、丁寧にジェイ・ゼルに早朝の通話の詫びを口にし、栄転の礼を述べる。
「ジェイ・ゼル様のお陰で、大変名誉ある役を頂きました」
「君の功績に報いるには、まだ足りないかと思っていたが、喜んでもらえて良かった」
毒を含みながら、ジェイ・ゼルは蜜の滴る言葉を呟く。
君の存在で、ハルシャがどれだけ苦しめられたのか、ゆるゆると思い知ってもらおうと、ジェイ・ゼルは考えていた。
今は――
ハルシャに対して、悪意を持たれては困るというのが、本音だった。
辛抱強いハルシャは、問いただすまで、一言も不満を言わなかった。
気付けなかった、自分の愚かさが身を締め付ける。
「礼だけか、シヴォルト」
違うだろう、と、ジェイ・ゼルは彼の言葉の先を待つ。
「ジェイ・ゼル様のご恩を、私は片時も忘れたことがありません」
シヴォルトが、身を低くするように、通話装置に言葉を告げる。
「実は、一つ気になることがありまして。どうしても、ジェイ・ゼル様にお伝えせねば、と思い立ち、このような時間ですが、ご連絡を致しました」
言い方が、気になった。
「何があった」
工場でのことかと、思ったが、シヴォルトの口にしたのは、全く違うことだった。
「ハルシャ・ヴィンドースのことです」
さっと、自分の顔色が変わるのが、感じられた。
「ハルシャが、どうかしたのか」
一瞬の間の後、
「もしや、ジェイ・ゼル様は、ご存じないのですか?」
と、静かな声で、逆に問い返してきた。
もったいぶった言い方に、忍耐が切れそうになる。
「どういうことだ、シヴォルト。ハルシャのことで、何かあったのか」
もしや、彼の作成した駆動機関部に、重大なミスでも発覚したのかと、考える。最後の仕事の納入先は、因縁のギランジュ・ロアだった。
そのことかと思ったジェイ・ゼルの耳に、信じられない言葉が響いた。
「三日ほど前から、ハルシャは、オオタキ・リュウジという青年を職場に伴ってきており、同じ仕事場で作業を教えております。オキュラ地域で出会ったそうで、二人は大変親しげでした」
初耳だった。
そんな青年の存在など、ハルシャから何も聞かされていない。
ジェイ・ゼルの沈黙に、再びシヴォルトの声が
「ご存じなかったのですね、ジェイ・ゼル様」
と、静かに通話装置から響く。
「ぜひ、ジェイ・ゼル様のお耳に入れなければならないと思いご連絡いたしました」
機械から響く、彼の声を、ジェイ・ゼルはただ、聞き続けていた。
「私は、ジェイ・ゼル様の忠実な、部下ですから――」