ほしのくさり

第97話  嵐の予兆





 夜明けを迎えたラグレンの街を、ネルソンの運転する飛行車で滑っていく。
 今回も、オキュラ地域まで送ってくれると、ジェイ・ゼルは思い遣りを見せてくれる。
 飛行車の後部座席で、ジェイ・ゼルの腕に包まれながら、ハルシャはラグレンの街並みを見つめていた。
 もうすぐ。
 別れの時が来る。

 口数が少なくなる。
 押し当てたジェイ・ゼルの胸から、彼の鼓動が聞こえる。
 その音に耳を澄ませて、ハルシャは黙していた。
 ジェイ・ゼルは約束通り、保冷箱に詰められた、サーシャへのお土産を持たせてくれている。
 それを見た時の、妹の笑顔を懸命に思い描こうとする。
 きっと喜ぶだろう。
 嬉しいはずのことを想像しても、胸の奥に渦巻く、別離の寂寥が消えない。
 小さく、ジェイ・ゼルが身じろぎした。
「もし」
 静かな声が上から響いた。

 ハルシャは、彼の顔へ視線を向ける。
 ジェイ・ゼルは、前を真っ直ぐに見ていた。
 もし?
 仮定の言葉を呟きながら、彼は中々続きを言わなかった。
 見つめるハルシャに、視線が落ちてくる。

「もし――」
 灰色の眼が細められた。
「一緒に君と暮らしたら、こんな時間を迎えなくていいんだな」

 ハルシャは、瞬きをした。
 一緒に暮らす。
 ジェイ・ゼルと?

 言葉の意味が、すぐに理解出来なかった。
 身を伸ばしたハルシャの髪に、ジェイ・ゼルが触れた。
「サーシャと一緒に三人で暮らしたら、さぞ、賑やかだろうな」

 黙したまま、ハルシャはジェイ・ゼルの瞳を見つめ続ける。
 さらっと、髪が撫でられる。

「私も、心配ばかりせずにすむ」

 滴り落ちた言葉の静けさが、ハルシャの胸を打った。
 考える以上に、ジェイ・ゼルは常に自分のことに、意識を向けていてくれているのかもしれない。
 ジェイ・ゼルが、視線を伏せた。
「夢のような話だな。ハルシャ」
 口にしながら、自分自身の手で砕き去ってしまうように、ジェイ・ゼルが呟いた。
 視線を伏せたままで、頭を撫でていた手が、不意にハルシャを引き寄せて腕に包んだ。
「君を、行かせたくない」
 小さな、呟きだった。
 ハルシャにしか、聞こえない、彼の、本当の言葉。
「サーシャが、待っている」
 彼の温もりに向けて、ハルシャは呟いた。
「すまない、ジェイ・ゼル」
 返事の代わりに、唇が覆われた。

 わかっている。
 君が一番大切なのは、妹のサーシャだ。
 彼女のために、君はどんな恥辱にも、逃げずに立ち向かっている。
 わかっているよ、ハルシャ。
 サーシャから君を、引き離しはしないよ。

 合わせた唇から、彼の想いが伝わってくる。
 ハルシャのことを、ジェイ・ゼルは理解してくれている。
 だから、お土産に、サーシャが喜ぶものを選んでくれたのだ。
 サーシャの幸せが、ハルシャの幸せだと知っているから。
 それでも。
 行かせたくないと言った、彼の気持ちが痛かった。
 夜明けを滑りながら、彼の息遣いを感じる。
 唇を離しながらジェイ・ゼルが呟いた。

「この温もりを、忘れないでくれ。ハルシャ」
 私は、忘れないから。
 言葉にならない、彼の想いが聞こえる。
「忘れない、ジェイ・ゼル」
 瞳を見つめる。
 永遠だ、と。
 ハルシャはまた、思った。
 星々にすら、最期の時があり、永遠ではないというのに。
 彼の中に、ハルシャは永遠を見た様な気がした。

 ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
 顎を捕えて、軽く唇を触れる。
「約束の証文だ」
 まるで、契約が更新されたように、彼が呟く。

 ハルシャは、後で気づいていた。
 ジェイ・ゼルと部屋を出て、会計を済ます彼の背を見つめながら、ふと、彼の望むことを拒否してはならないと最初に彼が言った言葉を、自分が破っていたことに。
 口に含んだものを、ジェイ・ゼルに食べさせてくれという言葉を、自分は拒んだ。無理だとにべもなく。
 だが、ジェイ・ゼルは強制せずに許してくれていた。
 そのことに、今更ながら気付いたのだ。
 何かが、変化してきているような気がした。

 ふわりと、飛行車がオキュラ地域に着いた。
「また、連絡をする」
 ハルシャの髪を撫でながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「待っている」
 ハルシャは、にこっと笑って、ジェイ・ゼルが渡してくれたお土産を手に持った。
「サーシャのことを考えてくれて、ありがとう」
 ネルソンにも礼を言い、ハルシャは扉を開けた。
 振り向いたら、きっと寂しさに負けてしまう。
「連絡を待っている、ジェイ・ゼル」
 それだけを言うと、懸命に足を前に出した。

 ジェイ・ゼルは止めなかった。
 外に出て、丁寧に扉を閉める。
 中にいるジェイ・ゼルが、自分を見つめていた。
 数歩下がり、小さく手を振る。
 ふっと、ジェイ・ゼルが微笑んだ。

 飛行車が浮かび上がり、ジェイ・ゼルを乗せて去っていく。
 ハルシャは、黒い車体が夜明けの空に消えるのを、じっと見守っていた。
 ふっと息を吐き、ボードの駆動部を入れると、静かに足を乗せる。
 軽く蹴って、家路を急ぐ。

 一緒に暮らす。
 思いもかけないことを、ジェイ・ゼルは言った。
 可能性を考えたこともなかった。
 もしそうなら――
 夜眠る時と、朝目覚める時。
 いつもジェイ・ゼルの顔を見つめていられる。

 だが。
 そうなると、サーシャにどう説明すればいいのか、ハルシャは解らなかった。
 もう、彼女も色々理解できる年頃になっている。
 昨夜も、説得するのに苦労した。リュウジが助け舟を出して、納得させてくれたが、今後は考えなくてはならない。
 現実的ではない。
 自分はジェイ・ゼルに、借金を負う身だ。
 実現不可能だと、ジェイ・ゼルが一番知っている。
 彼は冷徹な計算を難なくこなす。
 なのに。
 彼はつい、口走ってしまったのだ。
 息が苦しい。
 彼が恋しくて、今も、息が出来ない。
 さっき別れたばかりなのに、もう彼に逢いたかった。

 闇がまだ覆う夜明けのオキュラ地域を、ハルシャは、滑っていく。
 自宅の前でボードを大きく回転させて、きゅっと止まる。
 足で跳ねて手で受け止めた時、
「すみませんね」
 と、突然声がかけられた。
 完全に油断していた。
 ここはオキュラ地域で、そして、闇が支配している時刻だ。
 何も答えずに、ハルシャは鋭い眼差しを、声のした方向に向けた。
 声をかけていきなり襲い掛かるのが、ここでの常套手段だった。
 はかない街灯の光の下に、中年らしき男性の姿があった。

 ハルシャは、ボードを脇に抱えて持ち直した。
 見るからに、旅行者だった。
「迷ったのか」
 ハルシャは、開口一番、彼に問いかけた。
「上に戻る場所へ案内する。ついてきてくれ」
 リュウジのように、何も知らずにオキュラ地域に迷い込んでしまったのかもしれない。
「ここは旅行者には危険な場所だ。早く去った方がいい」
 歩き始めようとしたハルシャに、
「ご親切にどうも。ですが、ちょっとここに用事がありましてね」
 と、男性が口を開いた。
 ハルシャは、足を止めて、後ろを振り向いた。
 上質そうな帽子を軽く上げて、男性が挨拶をする。
「帝星から来た、ディー・マイルズと言います。実は、人を探していましてね」
 ハルシャは、自分が驚かないように、必死に自制する。
「人、を?」
 素早く人柄を確認する。
 上質な服を着ている。そして、物腰に隙が無い。
 ジェイ・ゼルと同じぐらいの身長だが、身体に幅があり、武闘派の雰囲気が漂っている。
 少しでも物を知る者なら、うかつに手を出せない強面の雰囲気が、全身からゆらりと漂っていた。
「はい、旅行者でね」
 帽子をかぶり直しながら、彼は静かにハルシャに眼差しを注ぐ。
 鋭い、物事の奥底を見通すような、視線だった。
「帝星からここへ来た、黒髪の青年で……何日か前から、行方不明になっているんですよ」
 どきっと、ハルシャの中に、心臓の音が聞こえた。
 リュウジのことだ。
 彼はリュウジを探して、帝星から惑星トルディアへ来たのだ。
 どっどっどと、心臓が躍る。
 必死に平静を装うハルシャの耳に、静かな彼の問いかけが響いた。
「早朝から申し訳ありませんが、この辺りで、帝星から来た黒髪の青年を、見かけませんでしたか?」


 *


「すまないね、ネルソン」
 ジェイ・ゼルは窓の外を見つめながら、呟いた。
「勝手で、君を振り回してしまったね」
「いいえ、ジェイ・ゼル様」
 静かなネルソンの声が返す。
「おくたびれではありませんか、ジェイ・ゼル様。このまま、会社で良いのですか? ご自宅のセイラメでなくてもよろしいですか」
 思いやりにあふれる彼の言葉に、ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
「ありがとう。本来なら、すぐに仕事にかからなければならないところを、私情で融通させてしまったからね」
 深く座席に身を沈めて、天を仰ぐ。
「ダナドスたちに呆れられる間に、きちんと責務を果たしておくよ」
 一瞬の間の後、ネルソンは詫びるように言葉を口にした。
「余計なことを申し上げました。会社に参ります。フェルズさんたちから、お待ちしているとご伝言を受けています」
「朝から、気の毒なことだ」
 ジェイ・ゼルの呟きに、ネルソンが静かに返す。
「宇宙酔いの調整に、丁度良いと仰っていました」
 宇宙に滞在すると、脳が混乱するのか、軽い不眠症になることがある。
 マシュー・フェルズはことに酔いやすい。それでも、律儀にジェイ・ゼルに同行してくれる。
「彼らしいね」
 ジェイ・ゼルは笑いながら言った。
 どこかに利益を見つけ出すのが、マシュー・フェルズの特徴だった。
 ジェイ・ゼルは、笑いを収めると、天を仰ぎ続けた。

 自分が、思わず口からこぼしてしまったことを、考え続ける。
 去るハルシャの背を、見送る必要がないということ。それが、どれほど自分にとって大切かと、今日、思い知った。
 どうかしている。
 一緒に暮らしたいなど。
 第一、サーシャにどう説明するのだ。
 君の兄は、私の恋人だと――ハルシャが一番隠したがっていることを、可愛い妹に突き付けなくてはならない。
 あまりにも、非現実的だ。
 それを、考えてしまうほど、自分はどうやら、追い詰められているようだ。
 はじめから、許されていない事であるのに。
 本当に。
 ハルシャがからむと、自分はとても、愚かで不器用な人間になるらしい。
 冷静な判断が、全く出来なくなる。

 考え込むジェイ・ゼルの、通話装置が不意に震えた。
 はっと、服に手を入れ、機械を乱雑に取り出す。
 ハルシャか。
 と、一瞬、思ってしまったのだ。
 あり得ないことだった。
 通話装置の画面の表示は、彼が異動させたシヴォルトの名を告げていた。

 シヴォルト?
 こんな早朝に、何の用だ。

 思いながら、ジェイ・ゼルは通話を繋ぐ。
「ジェイ・ゼルだ。どうした、シヴォルト」
 機械の先にいるシヴォルトが、丁寧にジェイ・ゼルに早朝の通話の詫びを口にし、栄転の礼を述べる。
「ジェイ・ゼル様のお陰で、大変名誉ある役を頂きました」
「君の功績に報いるには、まだ足りないかと思っていたが、喜んでもらえて良かった」
 毒を含みながら、ジェイ・ゼルは蜜の滴る言葉を呟く。
 君の存在で、ハルシャがどれだけ苦しめられたのか、ゆるゆると思い知ってもらおうと、ジェイ・ゼルは考えていた。
 今は――
 ハルシャに対して、悪意を持たれては困るというのが、本音だった。
 辛抱強いハルシャは、問いただすまで、一言も不満を言わなかった。
 気付けなかった、自分の愚かさが身を締め付ける。
「礼だけか、シヴォルト」
 違うだろう、と、ジェイ・ゼルは彼の言葉の先を待つ。
「ジェイ・ゼル様のご恩を、私は片時も忘れたことがありません」
 シヴォルトが、身を低くするように、通話装置に言葉を告げる。
「実は、一つ気になることがありまして。どうしても、ジェイ・ゼル様にお伝えせねば、と思い立ち、このような時間ですが、ご連絡を致しました」
 言い方が、気になった。
「何があった」
 工場でのことかと、思ったが、シヴォルトの口にしたのは、全く違うことだった。
「ハルシャ・ヴィンドースのことです」
 さっと、自分の顔色が変わるのが、感じられた。
「ハルシャが、どうかしたのか」

 一瞬の間の後、
「もしや、ジェイ・ゼル様は、ご存じないのですか?」
 と、静かな声で、逆に問い返してきた。
 もったいぶった言い方に、忍耐が切れそうになる。

「どういうことだ、シヴォルト。ハルシャのことで、何かあったのか」
 もしや、彼の作成した駆動機関部に、重大なミスでも発覚したのかと、考える。最後の仕事の納入先は、因縁のギランジュ・ロアだった。
 そのことかと思ったジェイ・ゼルの耳に、信じられない言葉が響いた。
「三日ほど前から、ハルシャは、オオタキ・リュウジという青年を職場に伴ってきており、同じ仕事場で作業を教えております。オキュラ地域で出会ったそうで、二人は大変親しげでした」
 初耳だった。
 そんな青年の存在など、ハルシャから何も聞かされていない。

 ジェイ・ゼルの沈黙に、再びシヴォルトの声が
「ご存じなかったのですね、ジェイ・ゼル様」
 と、静かに通話装置から響く。
「ぜひ、ジェイ・ゼル様のお耳に入れなければならないと思いご連絡いたしました」
 機械から響く、彼の声を、ジェイ・ゼルはただ、聞き続けていた。
「私は、ジェイ・ゼル様の忠実な、部下ですから――」









Page Top