ほしのくさり

第10話  ハルシャの拾い物






 早朝のラグレンの薄暗い路上に、一人の男が、倒れている。
 ハルシャは無言で、男の様子を見つめていた。
 
 左の頬を地面につけ、投げ捨てられたように、男は身を横たえていた。
 黒い髪の、青年だった。
 見るからに、旅行者のようだ。ラグレンでは見慣れない服装をしている。
 どこにも縫製の跡がない、ふんわりと身を覆う優雅な服。
 だが、今はずたずたに裂かれている。
 華やかなラグレンの表の顔に惑わされ、旅行者の彼は、迂闊《うかつ》にも地上に降りてきてしまったのだ。
 ラグレンの地表部分の恐ろしさに対する、認識が欠如していたのだろう。
 彼は、身ぐるみはがれていた。
 鞄などの所持品らしきものが、周囲に見当たらない。
 暴力的な窃盗に遭ったのだ。しかも彼は、強盗に対して、愚かにも抵抗をしたらしい。
 顔にくっきりとした暴行の痕がある。裂かれた服の下の皮膚も、変色していた。
 ハルシャは、ボードから降りると、足で浮かせて手でつかんだ。駆動部を切る。
 ゆっくりと、男に近づいていく。
 生きているのか、死んでいるのか、判断がつかない。
 青年は、動かなかった。
 ハルシャは、彼の側で膝を折った。
 そっと、彼の首筋の、太い血管に触れる。
 どくんどくんと、確かな命の流れを、指先に感じる。
 
 彼は、生きている。

 一瞬、ハルシャは迷った。
 厄介ごとには、目を潰れ。
 それが下層地域と蔑称で呼ばれるここ、オキュラ地域の鉄則だった。
 だが。
 彼は旅行者だ。
 広い宇宙の中で、わざわざ彼は旅行先として、惑星トルディアを選んだ。先祖が大切にしていたこの星に降り立った旅人を、路上で見殺しにすることが、ハルシャにはどうしても、出来なかった。
 彼には、帰るべき故郷の星があるはずだ。
 帰りを待つ、家族がいるかもしれない。
 自分がかつて思ったように、故郷に骨を埋めたいと考えていたかもしれない。
 旅先での死は、望んだものではないだろう。
 短い躊躇の後、ハルシャは声をかけた。
「おい、あんた」
 骨が折れていることを危惧しながら、そっと青年の肩に触れる。
「大丈夫か」
 わずかな刺激に、うっすらと青年が目を開いた。
 目の前に膝をつくハルシャを、路上に頬を預けたまま、見上げる。
 焦点の定まらない、虚ろな眼差しだった。
「立てるか?」
 ハルシャの言葉に、彼は反応しなかった。
 開いたときと同じ緩慢さで、再び黒い睫毛が動き、目が閉じられる。
 
 意識レベルが、低い。
 脳に衝撃を受けたのかもしれない。
 今は自発呼吸をしているが、止まると厄介だ。早く医者に見せる必要がある。
 
 自分の身すら保つのがやっとなのに、面倒ごとをこれ以上抱えるのか、と現実を見つめながらも、ハルシャは、男の頬を打つ。
「おい、どこが痛むんだ。背骨を打っていないか」
 だが、男はもう、目を開かなかった。
 ちっと舌打ちしながら、ハルシャは彼の身を手で探る。
 頸椎や、脊椎の骨折が恐かった。
 そこが折れていれば、下手に動かせば神経を切ってしまう。
 丹念に、背骨を探る。
 肋骨も調べた。
 大丈夫のようだ、持ち上げても骨が肺に突き刺さることはなさそうだ。
 本来なら、この状態で動かさずに運ぶべきだったが、こんな場所に呼んでも救命車は来ない。医者の支払いが出来ないことが、解り切っていたからだ。まるでこの世に存在しないように、地上を這う下層民は無視される。
 ハルシャは、横たわる男の肩を保持しながら、彼の身をゆっくりと起こす。
 様子を見る。
 わずかに呻いただけで、彼の状態は変わらない。
 首も頭をきちんと、支えている。
 動かしても、大丈夫そうだ。
 判断をつけて両腕で抱えるように持ち上げた体は、思ったよりも軽かった。
 黒髪の青年は、自分と同じぐらいの年齢のようだ。
「少し辛抱してくれ」
 意識のない彼に、呟きながらハルシャは歩き出す。
「一番近い医者に運ぶ」


 *


 あくびと共に、オキュラ地域で一番近くにいる医者、ミア・メリーウェザは、ハルシャの声に応えて、医療院の扉を開けた。
 起き抜けらしく、彼女はまだ、寝間着姿だ。
 口を開こうとしたメリーウェザ医師は、ハルシャが腕に抱える青年へ、目を向ける。
「中に運びな」
 眠気を一瞬で払拭した顔で、メリーウェザ医師は、さっと首を振りながら、扉を大きく開く。
「メドック・システムに入れる」
 踵を返した彼女の後に、ハルシャは従った。
 かつかつと、硬い足音を立てながら、機敏な動きで彼女は前を歩く。
「拾い物か、ハルシャ」
 歩きながら、メリーウェザ医師が、笑いを含んで問いかける。
 動きにつれて、彼女の長い髪が、左右に揺れる。
「見たところ、身ぐるみはがれた旅行者らしいね」
 ハルシャの見立てと同じだった。
「路上に放置されていた」
 ハルシャの呟きに、くすっとメリーウェザ医師が笑う。
「そうか。命を取るほどの価値はないと思われたんだな」
 医療室を開きながら、彼女は言葉を続ける。
「幸運なことだ」


 ハルシャがミア・メリーウェザ医師の医療院を選んだ一番の理由は、距離が近いことだった。
 二番目の理由は、彼女はオキュラ地域では唯一、総合医療システム――通称、メドック・システムを設備として持っていたからだった。
 メドック・システムは、主に、宇宙船に搭載されることを想定して発達した、医療システムだった。
 人が横たわる大きさの筒状の機械で、自動で病巣やその種類まで測定する。必要なら、治療まで行える優れた医療器具だ。
 宇宙の極限状態の中、生きて戻るために宇宙飛行士たちが編み出した技術。
ミア・メリーウェザ医師は、複雑な医療システムを、息をするように容易く使いこなしている。
 彼女は昔、宇宙船の船医だったと、聞いたことがあった。メドック・システムを持っているのも、そのためなのだと。直接訊ねたことはなかったが、噂を信じさせるほど、彼女の腕は素晴らしかった。
 彼女は素早く、部屋の中央にあるメドック・システムの基盤に触れて、駆動させる。操作盤に向かい、指を走らせた。
 白い筒状の機械の上部が割れる。
「こっちを頭にして、入れてくれ、ハルシャ」
 メリーウェザ医師の指示に従って、ハルシャは開いたメドック・システムの中に、青年を横たえた。
 機械に背中が触れた時、彼はわずかに呻いた。
 口の端に、血がにじんでいる。
 殴打されたのだろう。
 顔以外にも、彼の身はいたるところが傷つけられていた。
 ハルシャが手を引くと、メリーウェザ医師が、操作盤で必要な操作を行う。彼女は素早く、必要な検査を指示しているようだった。
 打ち込みが終わり、『開始』と短い言葉が響く。同時に、筒状の蓋が閉じる。
 ウイィィンと、機械が唸り始めた。
「先生」
 様子を見守っていたハルシャは、短く医師の背中に言葉をかける。
「ちょっと、戻ってくる」
 ん、と、茶色の髪を指で梳きながら振り向き、小首をかしげてメリーウェザ医師がハルシャに眼差しで問いかける。
「この男の倒れていた場所に。ボードを置いてきた」
 ああ、と彼女は理解を示した。
「行っといで、ハルシャ。状態を測定するには、まだまだ時間がかかる」
「厄介ごとを、持ち込んですまない」
 詫びるハルシャに、豪快にメリーウェザ医師は笑う。
「異星の人を見捨てて、おけなかったんだろう」
 鮮やかなウインクが、彼女の顔を彩る。
「君らしいよ、ハルシャ」
 ふふと笑いながら、彼女は肩を上げて、おどけたように言う。
「メドック・システムも喜んでいるよ。自分が活躍できる絶好の機会だとね。水虫の治療ばかりで、飽き飽きしていたところだと」
 メリーウェザ医師が微笑む。
 行っといで、この子は私が見ておいてやるから、と、優しく、彼女はハルシャを送り出す。

 青年を運ぶために、ハルシャはボードをその場に放置してきた。
 失えば、明日から困ったことになる。今はまだ人気が少ないので、ハルシャは運を天に任せて置いてきのだ。一段落した今、急いで、取りに戻る。
 幸いなことに、青年が倒れていた場所に、ボードは無傷で残っていた。
 ほっとしながら、右手に持つ。
 ついでに、ハルシャは青年が倒れていた場所を、丹念に見直した。
 何か、彼の所持品が残っていないかと、思ったのだ。
 だが、それらしきものは、何も落ちていない。彼は身一つで、放り出されたようだ。もしかしたら、被害に遭ったのは別の場所で、ここに身を捨てられただけなのかもしれない。
 思いながら、ハルシャはボードに乗り、メリーウェザ医師の元へ戻る。
 入って来たハルシャを見て、彼女は笑った。
「良かったな。盗まれていなかったか」
 ボードを持っていることに、優しく目を細める。
「ああ」
 ハルシャは、手にしていたボードを、壁に立てかける。
 メリーウェザ医師が、前を向く。
「正確な結果が出るのは、もう少し先だが」
 操作盤の情報を読みながら、彼女が呟く。
「大きな問題はなさそうだな。骨は折られていないし、内臓も損傷していない。口内の粘膜が切れ、皮膚の表面だけ傷ついている――まあ、ちょっとひどい打撲というところかな」
 ハルシャが、ボードを取りに言っている間に、彼女も作業をしたらしい。
 髪が一つにまとめられている。
「本当に、幸運な子だ。うっかりオキュラ地区に足を踏み入れて、これぐらいで済むなんてな」
 
 彼は見かけほど、ひどい状態ではなかったらしい。
 ほっとしたのだろう。
 不意にハルシャは、ぐらりと世界が揺れたような気がした。
 張りつめた気が緩んだのかもしれない。重なる睡眠不足のせいで、身が限界に近い。解っているが、納期の迫る今は、どうしようもない。
「結果が出るまで、座っていろ、ハルシャ」
 背中を向けたままで、メリーウェザ医師が声をかけてくる。
「顔色が悪いぞ――また、無理をしているのだろう」
 柔らかな言葉だった。
 彼女が振り向いて、ハルシャを見た。
 茶色の髪に縁どられた、理知的な顔が、ハルシャを見つめる。
 優しく微笑むと、彼女が呟いた。
「サーシャが心配していた。実に、兄思いの妹だな」

 ふっと、ハルシャは胸を突かれる。
 医療について勉強したいという妹の懇願に負けて、メリーウェザ医師は、サーシャをアルバイトとして、雇ってくれている。
 掃除や洗濯、診療の補助などを、任せてもらっているらしい。
 まだ子どものサーシャを、一人前の人間として彼女は、扱ってくれている。それが、何よりもありがたかった。最近、サーシャの話題は、凄腕の医者ミア・メリーウェザのことがほとんどだった。

 医者の目で、メリーウェザがハルシャを見つめる。
「本来なら、君を、メドック・システムに突っ込みたいぐらいだ。五日は出てこられないぞ」
 そして、笑う。
「私に君ぐらいの技術があれば、仕事を替わってやるのだがな。医者は楽だぞ。メドック・システムを駆動させて、患者を放り込んで、茶をすすっていればいい。
 どうだ、ハルシャ。医者にならないか? 喜んでメドック・システムを貸してやるよ」
 笑みが深まった。
「そしたら、私もサーシャも、安心していられる」

 惑星ガイアには、水があふれている。人類の故郷の星では、天から水が降るという。
 雨と、呼ぶのだ。
 乾いた大地に降り注ぐ、恵みの水。
 メリーウェザ医師の言葉は、目にしたことのない雨のように、ハルシャの中に降り注いだ。
 ハルシャが、彼女を頼ったのは、もう一つ理由がある。
 彼女は誰よりも、ハルシャとサーシャの兄妹のことに、心をかけてくれていた。

「メドック・システムは、診断するだけだ」
 ハルシャは、本心からの言葉を呟く。
「治療には、高度な知識と判断を必要とする――俺では到底こなせない。あなたは、立派な医師だ。代わりにはなれない」
 
 もう、夢を見させないでくれ。
 思いがあふれそうになる。
 楽になる道など、示さないでくれ。
 そうでないと――耐えられなくなる。

 言った後、ハルシャは、メリーウェザ医師の指示に従って、壁に付けて置かれた長椅子に、腰を下ろす。
 こつんと、後頭部を壁に預ける。
 しばらくハルシャを見守ってから、メリーウェザ医師は、メドック・システムの表示に戻った。
 彼女は、自分たちの境遇を知ってくれている。
 ハルシャは目を閉じた。
 さわさわと、衣擦れの音がする。
 人が動く気配を感じながら、ハルシャはまどろみの中に、引きこまれそうになった。
 サーシャが、きっと待っている。
 彼の診断が出たら、一度家に戻ろう。
 メリーウェザ医師は、彼を預かってくれるだろうか。
 自分が仕事に行く間、医療院に置いてもらえると、助かる。
 話が出来るようになったら、彼に詳細を聞き出して、届を出さなくてはならない――彼は、どこに宿泊しているのだろう。荷物を奪われたようだが、身分証が盗られていなければいのだが。旅行者の身分証の再発行は、結構手間がかかる。
 しかし。
 彼はどうして――このオキュラ地区に迷い込んでしまったのだろう。
 ラグレンのガイドブックには、『地上に絶対に降りてはいけません』と、大きな文字で最初に注意を呼び掛けている。命の危険がありますよ、と、警告をしているのだ。
 なのに。
 なぜ――彼は、オキュラに来たのだろう。

 考えにふけるうちに、どうやら自分は眠ってしまったらしい。
 次に意識が戻ったのは、
「寝かしておいてやれ、サーシャ」
 という、メリーウェザ医師の、囁きのような声がきっかけだった。
「ひどく疲労している。どうせ、すぐに仕事に戻るのだろう。家に戻らずに、ここから行けばいい――食事なら、備蓄してあるパウチを提供するよ」

 開いた目の先に、青い瞳が映った。
 軽く、驚きに見開かれる。
 サーシャだった。
 自分は長椅子に身を横たえて、寝ていたようだ。それを、身を屈めて妹が眺めていた。

「起きてしまいました、先生」
 サーシャが、自分を見つめながら、困ったように眉を寄せている。

 がばっと、ハルシャは起き上がった。
 時間を確かめる。
 ほっと、息を吐く。
 まだ、半時間しか経っていない。

「ほら、君がしげしげとみるからだよ、サーシャ。そっとしておいてやれと、言っただろう」
 笑いを含んだ声で、メリーウェザ医師が、なじるように言う。
「毎日見ていて、珍しいものでもないだろう。兄の顔なんてな」

 ハルシャは、身を起こしたまま、床にしゃがみ込んでいるサーシャを見た。
「どうして、ここに居るんだ、サーシャ」
 問いかけに、当の本人ではなく、メリーウェザ医師が返事をする。
「私が呼んだ。兄の帰りが遅いことを心配しているだろう、というのが一つ。この患者の治療を手伝って欲しいというのが、一つ」
 にこっと笑いながら、彼女は振り向いた。
「さっき、メドック・システムの診断が出た。この患者の脳にもどこにも損傷はない。先ほどの見立て通り、打ち身と打撲だけだ。安心しろ、ハルシャ」
 
 サーシャがしゃがんだまま、笑う。
「良かったね、お兄ちゃん」
 青い瞳が、柔らかい笑みを作る。
 サーシャはどうやら、ここまでの経緯をメリーウェザ医師から聞かされているらしい。嬉しそうに言葉をかけてくる。
 早朝の急な呼び出しにも、彼女はきちんと対応していた。服を着替え、くりくりとした金色の巻き毛を、後ろで一つにまとめている。
 十一になる妹は、ここ最近、ますます母親に面立ちが似てきていた。
 立ち上がりながら、サーシャが小首をかしげる。
「安心したら、お腹が空いてこない? 先生に呼ばれるときに、ご飯を持ってきたよ。一緒に食べようか、お兄ちゃん」
「パウチもあるぞ」
 横から、メリーウェザ医師が割り込むように、声をかける。
「倉庫を空にしていってもいいぞ」
「先生。お兄ちゃんを、残飯処理みたいに使わないでください」
「それは、聞き捨てならないな。私は親切から言っているのだ。ハルシャの労働による消費カロリーは相当なものだ。補うには、たくさん食べなくてはならない」
「先生は、珍しい味があるとすぐ飛びついて、口に合わなくて放ってあるのが、たくさんあります」
「それは違うぞ、サーシャ。医者は激務だから、食事の時間が取れない。便利だから、パウチを買うだけだ。まあ、色々チャレンジしてしまうのは、確かだが」
 少し、語尾が消える。
「ほら、やっぱり。惑星ファングーラの泡立つ海風味とか、アジェンダの大蟹風味なんて、変な味のばっかりなんだから。買った人が、きちんと責任を持って食べて下さいね」
 決めつけるように、サーシャが言う。
 六歳でここへ来た時は、ハルシャの影に隠れるようにしていたサーシャは、五年で随分たくましくなった。
 そうならざるを、得ない日々だった。
 やり取りを聞いていたハルシャへ、サーシャが笑顔を向ける。
「さ、ご飯にしよう。お兄ちゃん」
「パウチもあるぞ、ハルシャ」
 めげずに、メリーウェザ医師が小声で告げる。


 医療室の片隅を借りて、ハルシャは、サーシャと朝食をとる。
 妹が持ってきてくれた食事を口に運び、たわいない話を聞いているときだけ、ハルシャは自分が人間に戻ったような気がする。
 残りの時間、自分は道具にすぎない。星々を渡る船の機械を組み立て、性欲を処理をするためだけに存在している、ただの道具。
 それが、自分が選んだ道だった。

「おいしかった。ありがとう。手間をかけさせたな」
 ハルシャの言葉に、嬉しそうにサーシャが笑う。
 メリーウェザ医師が、これ見よがしに置いたパウチを手で、つつっと机の端に動かしながら、
「まだお仕事までには、時間があるんでしょう? もう少し休んでいったら、って、先生が」
 と、サーシャが心配そうに言う。
「奥のベッドを使っていいぞ」
 背中越しに、メリーウェザ医師が声をかけてくれる。
「そのパウチは、昼食に持って帰ってもらってもいいからな、ハルシャ」
 持って帰れ、という圧を込めながら、ついでを装って、メリーウェザ医師が言う。
 二人の攻防戦に、ふっとハルシャは笑った。
 事実――
 あと一時間ほど、眠ることが出来る。
「お言葉に甘えます」
 ハルシャは素直に言って、立ち上がった。
 寝ないと、作業に差し支える。
「おやすみなさい、お兄ちゃん。時間になったら、起こしてあげるから、安心してね」
 家から持ってきた食器を片付けながら、サーシャがハルシャを見上げる。
 さっさと彼女はパウチをまとめて、箱に戻していた。
「助かる。ありがとう、サーシャ」
 にこっと、屈託ない笑みを、妹がハルシャへ向ける。
 胸の奥が、ふっと温かくなる。
 この笑顔を守るためなら、どんな苦痛にも、耐えることが出来る。
 手を延ばし、サーシャの頭を撫でてから、ハルシャは部屋の奥に置いてある医療用のベッドに向かう。
 薄いカーテンで仕切られた区画に置かれたベッドに、ハルシャは靴を脱ぎ、潜り込んだ。
 目を閉じる。
 遠くから、眠りにつこうとするハルシャに配慮してか、ひそめた二人の声が聞こえる。
 人の気配に、なぜか、安堵を覚える。
 緊張する必要のない時間が、貴重に思えた――それほどまでに、ハルシャの日常は、張りつめた時間の連続だった。
 二人の会話が、穏やかに耳に響く。

 また、顔を見に行って、眠りの邪魔をするなよ、サーシャ。
 行きませんよ、先生。あの時、顔を見ていたのは、心配だっただけです。
 どうだかな。自分の兄は、銀河帝国一のイケメンだ……なんて、感慨にふけっていたのではないか。
 違います! 疲労がひどいのを、心配していただけです!
 おいおい、サーシャ、声が高い。またハルシャを起こしてしまうぞ。
 もう、先生は――

 メリーウェザ医師とサーシャは、年の近い親子か、年の離れた姉妹のように、仲が良い。
 二人が交わす会話の温もりに、ハルシャの荒れた心が安らいでいく。
 遠くに、声が聞こえる。


 さてさて、仕事にかかろうか、サーシャ。ハルシャの拾い物に、手当てしないとな。
 はい、先生。あ、このパウチ、朝食に食べますか?
 止めてくれ。『惑星ファングーラの泡立つ海風味』は、二度と口にしたくない味だ。


 後の二人の会話は、ハルシャの記憶にない。
 そのまま、深い眠りに入ってしまったからだった。



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