早朝のラグレンの薄暗い路上に、一人の男が、倒れている。
ハルシャは無言で、男の様子を見つめていた。
左の頬を地面につけ、投げ捨てられたように、男は身を横たえていた。
黒い髪の、青年だった。
見るからに、旅行者のようだ。ラグレンでは見慣れない服装をしている。
どこにも縫製の跡がない、ふんわりと身を覆う優雅な服。
だが、今はずたずたに裂かれている。
華やかなラグレンの表の顔に惑わされ、旅行者の彼は、迂闊《うかつ》にも地上に降りてきてしまったのだ。
ラグレンの地表部分の恐ろしさに対する、認識が欠如していたのだろう。
彼は、身ぐるみはがれていた。
鞄などの所持品らしきものが、周囲に見当たらない。
暴力的な窃盗に遭ったのだ。しかも彼は、強盗に対して、愚かにも抵抗をしたらしい。
顔にくっきりとした暴行の痕がある。裂かれた服の下の皮膚も、変色していた。
ハルシャは、ボードから降りると、足で浮かせて手でつかんだ。駆動部を切る。
ゆっくりと、男に近づいていく。
生きているのか、死んでいるのか、判断がつかない。
青年は、動かなかった。
ハルシャは、彼の側で膝を折った。
そっと、彼の首筋の、太い血管に触れる。
どくんどくんと、確かな命の流れを、指先に感じる。
彼は、生きている。
一瞬、ハルシャは迷った。
厄介ごとには、目を潰れ。
それが下層地域と蔑称で呼ばれるここ、オキュラ地域の鉄則だった。
だが。
彼は旅行者だ。
広い宇宙の中で、わざわざ彼は旅行先として、惑星トルディアを選んだ。先祖が大切にしていたこの星に降り立った旅人を、路上で見殺しにすることが、ハルシャにはどうしても、出来なかった。
彼には、帰るべき故郷の星があるはずだ。
帰りを待つ、家族がいるかもしれない。
自分がかつて思ったように、故郷に骨を埋めたいと考えていたかもしれない。
旅先での死は、望んだものではないだろう。
短い躊躇の後、ハルシャは声をかけた。
「おい、あんた」
骨が折れていることを危惧しながら、そっと青年の肩に触れる。
「大丈夫か」
わずかな刺激に、うっすらと青年が目を開いた。
目の前に膝をつくハルシャを、路上に頬を預けたまま、見上げる。
焦点の定まらない、虚ろな眼差しだった。
「立てるか?」
ハルシャの言葉に、彼は反応しなかった。
開いたときと同じ緩慢さで、再び黒い睫毛が動き、目が閉じられる。
意識レベルが、低い。
脳に衝撃を受けたのかもしれない。
今は自発呼吸をしているが、止まると厄介だ。早く医者に見せる必要がある。
自分の身すら保つのがやっとなのに、面倒ごとをこれ以上抱えるのか、と現実を見つめながらも、ハルシャは、男の頬を打つ。
「おい、どこが痛むんだ。背骨を打っていないか」
だが、男はもう、目を開かなかった。
ちっと舌打ちしながら、ハルシャは彼の身を手で探る。
頸椎や、脊椎の骨折が恐かった。
そこが折れていれば、下手に動かせば神経を切ってしまう。
丹念に、背骨を探る。
肋骨も調べた。
大丈夫のようだ、持ち上げても骨が肺に突き刺さることはなさそうだ。
本来なら、この状態で動かさずに運ぶべきだったが、こんな場所に呼んでも救命車は来ない。医者の支払いが出来ないことが、解り切っていたからだ。まるでこの世に存在しないように、地上を這う下層民は無視される。
ハルシャは、横たわる男の肩を保持しながら、彼の身をゆっくりと起こす。
様子を見る。
わずかに呻いただけで、彼の状態は変わらない。
首も頭をきちんと、支えている。
動かしても、大丈夫そうだ。
判断をつけて両腕で抱えるように持ち上げた体は、思ったよりも軽かった。
黒髪の青年は、自分と同じぐらいの年齢のようだ。
「少し辛抱してくれ」
意識のない彼に、呟きながらハルシャは歩き出す。
「一番近い医者に運ぶ」
*
あくびと共に、オキュラ地域で一番近くにいる医者、ミア・メリーウェザは、ハルシャの声に応えて、医療院の扉を開けた。
起き抜けらしく、彼女はまだ、寝間着姿だ。
口を開こうとしたメリーウェザ医師は、ハルシャが腕に抱える青年へ、目を向ける。
「中に運びな」
眠気を一瞬で払拭した顔で、メリーウェザ医師は、さっと首を振りながら、扉を大きく開く。
「メドック・システムに入れる」
踵を返した彼女の後に、ハルシャは従った。
かつかつと、硬い足音を立てながら、機敏な動きで彼女は前を歩く。
「拾い物か、ハルシャ」
歩きながら、メリーウェザ医師が、笑いを含んで問いかける。
動きにつれて、彼女の長い髪が、左右に揺れる。
「見たところ、身ぐるみはがれた旅行者らしいね」
ハルシャの見立てと同じだった。
「路上に放置されていた」
ハルシャの呟きに、くすっとメリーウェザ医師が笑う。
「そうか。命を取るほどの価値はないと思われたんだな」
医療室を開きながら、彼女は言葉を続ける。
「幸運なことだ」
ハルシャがミア・メリーウェザ医師の医療院を選んだ一番の理由は、距離が近いことだった。
二番目の理由は、彼女はオキュラ地域では唯一、総合医療システム――通称、メドック・システムを設備として持っていたからだった。
メドック・システムは、主に、宇宙船に搭載されることを想定して発達した、医療システムだった。
人が横たわる大きさの筒状の機械で、自動で病巣やその種類まで測定する。必要なら、治療まで行える優れた医療器具だ。
宇宙の極限状態の中、生きて戻るために宇宙飛行士たちが編み出した技術。
ミア・メリーウェザ医師は、複雑な医療システムを、息をするように容易く使いこなしている。
彼女は昔、宇宙船の船医だったと、聞いたことがあった。メドック・システムを持っているのも、そのためなのだと。直接訊ねたことはなかったが、噂を信じさせるほど、彼女の腕は素晴らしかった。
彼女は素早く、部屋の中央にあるメドック・システムの基盤に触れて、駆動させる。操作盤に向かい、指を走らせた。
白い筒状の機械の上部が割れる。
「こっちを頭にして、入れてくれ、ハルシャ」
メリーウェザ医師の指示に従って、ハルシャは開いたメドック・システムの中に、青年を横たえた。
機械に背中が触れた時、彼はわずかに呻いた。
口の端に、血がにじんでいる。
殴打されたのだろう。
顔以外にも、彼の身はいたるところが傷つけられていた。
ハルシャが手を引くと、メリーウェザ医師が、操作盤で必要な操作を行う。彼女は素早く、必要な検査を指示しているようだった。
打ち込みが終わり、『開始』と短い言葉が響く。同時に、筒状の蓋が閉じる。
ウイィィンと、機械が唸り始めた。
「先生」
様子を見守っていたハルシャは、短く医師の背中に言葉をかける。
「ちょっと、戻ってくる」
ん、と、茶色の髪を指で梳きながら振り向き、小首をかしげてメリーウェザ医師がハルシャに眼差しで問いかける。
「この男の倒れていた場所に。ボードを置いてきた」
ああ、と彼女は理解を示した。
「行っといで、ハルシャ。状態を測定するには、まだまだ時間がかかる」
「厄介ごとを、持ち込んですまない」
詫びるハルシャに、豪快にメリーウェザ医師は笑う。
「異星の人を見捨てて、おけなかったんだろう」
鮮やかなウインクが、彼女の顔を彩る。
「君らしいよ、ハルシャ」
ふふと笑いながら、彼女は肩を上げて、おどけたように言う。
「メドック・システムも喜んでいるよ。自分が活躍できる絶好の機会だとね。水虫の治療ばかりで、飽き飽きしていたところだと」
メリーウェザ医師が微笑む。
行っといで、この子は私が見ておいてやるから、と、優しく、彼女はハルシャを送り出す。
青年を運ぶために、ハルシャはボードをその場に放置してきた。
失えば、明日から困ったことになる。今はまだ人気が少ないので、ハルシャは運を天に任せて置いてきのだ。一段落した今、急いで、取りに戻る。
幸いなことに、青年が倒れていた場所に、ボードは無傷で残っていた。
ほっとしながら、右手に持つ。
ついでに、ハルシャは青年が倒れていた場所を、丹念に見直した。
何か、彼の所持品が残っていないかと、思ったのだ。
だが、それらしきものは、何も落ちていない。彼は身一つで、放り出されたようだ。もしかしたら、被害に遭ったのは別の場所で、ここに身を捨てられただけなのかもしれない。
思いながら、ハルシャはボードに乗り、メリーウェザ医師の元へ戻る。
入って来たハルシャを見て、彼女は笑った。
「良かったな。盗まれていなかったか」
ボードを持っていることに、優しく目を細める。
「ああ」
ハルシャは、手にしていたボードを、壁に立てかける。
メリーウェザ医師が、前を向く。
「正確な結果が出るのは、もう少し先だが」
操作盤の情報を読みながら、彼女が呟く。
「大きな問題はなさそうだな。骨は折られていないし、内臓も損傷していない。口内の粘膜が切れ、皮膚の表面だけ傷ついている――まあ、ちょっとひどい打撲というところかな」
ハルシャが、ボードを取りに言っている間に、彼女も作業をしたらしい。
髪が一つにまとめられている。
「本当に、幸運な子だ。うっかりオキュラ地区に足を踏み入れて、これぐらいで済むなんてな」
彼は見かけほど、ひどい状態ではなかったらしい。
ほっとしたのだろう。
不意にハルシャは、ぐらりと世界が揺れたような気がした。
張りつめた気が緩んだのかもしれない。重なる睡眠不足のせいで、身が限界に近い。解っているが、納期の迫る今は、どうしようもない。
「結果が出るまで、座っていろ、ハルシャ」
背中を向けたままで、メリーウェザ医師が声をかけてくる。
「顔色が悪いぞ――また、無理をしているのだろう」
柔らかな言葉だった。
彼女が振り向いて、ハルシャを見た。
茶色の髪に縁どられた、理知的な顔が、ハルシャを見つめる。
優しく微笑むと、彼女が呟いた。
「サーシャが心配していた。実に、兄思いの妹だな」
ふっと、ハルシャは胸を突かれる。
医療について勉強したいという妹の懇願に負けて、メリーウェザ医師は、サーシャをアルバイトとして、雇ってくれている。
掃除や洗濯、診療の補助などを、任せてもらっているらしい。
まだ子どものサーシャを、一人前の人間として彼女は、扱ってくれている。それが、何よりもありがたかった。最近、サーシャの話題は、凄腕の医者ミア・メリーウェザのことがほとんどだった。
医者の目で、メリーウェザがハルシャを見つめる。
「本来なら、君を、メドック・システムに突っ込みたいぐらいだ。五日は出てこられないぞ」
そして、笑う。
「私に君ぐらいの技術があれば、仕事を替わってやるのだがな。医者は楽だぞ。メドック・システムを駆動させて、患者を放り込んで、茶をすすっていればいい。
どうだ、ハルシャ。医者にならないか? 喜んでメドック・システムを貸してやるよ」
笑みが深まった。
「そしたら、私もサーシャも、安心していられる」
惑星ガイアには、水があふれている。人類の故郷の星では、天から水が降るという。
雨と、呼ぶのだ。
乾いた大地に降り注ぐ、恵みの水。
メリーウェザ医師の言葉は、目にしたことのない雨のように、ハルシャの中に降り注いだ。
ハルシャが、彼女を頼ったのは、もう一つ理由がある。
彼女は誰よりも、ハルシャとサーシャの兄妹のことに、心をかけてくれていた。
「メドック・システムは、診断するだけだ」
ハルシャは、本心からの言葉を呟く。
「治療には、高度な知識と判断を必要とする――俺では到底こなせない。あなたは、立派な医師だ。代わりにはなれない」
もう、夢を見させないでくれ。
思いがあふれそうになる。
楽になる道など、示さないでくれ。
そうでないと――耐えられなくなる。
言った後、ハルシャは、メリーウェザ医師の指示に従って、壁に付けて置かれた長椅子に、腰を下ろす。
こつんと、後頭部を壁に預ける。
しばらくハルシャを見守ってから、メリーウェザ医師は、メドック・システムの表示に戻った。
彼女は、自分たちの境遇を知ってくれている。
ハルシャは目を閉じた。
さわさわと、衣擦れの音がする。
人が動く気配を感じながら、ハルシャはまどろみの中に、引きこまれそうになった。
サーシャが、きっと待っている。
彼の診断が出たら、一度家に戻ろう。
メリーウェザ医師は、彼を預かってくれるだろうか。
自分が仕事に行く間、医療院に置いてもらえると、助かる。
話が出来るようになったら、彼に詳細を聞き出して、届を出さなくてはならない――彼は、どこに宿泊しているのだろう。荷物を奪われたようだが、身分証が盗られていなければいのだが。旅行者の身分証の再発行は、結構手間がかかる。
しかし。
彼はどうして――このオキュラ地区に迷い込んでしまったのだろう。
ラグレンのガイドブックには、『地上に絶対に降りてはいけません』と、大きな文字で最初に注意を呼び掛けている。命の危険がありますよ、と、警告をしているのだ。
なのに。
なぜ――彼は、オキュラに来たのだろう。
考えにふけるうちに、どうやら自分は眠ってしまったらしい。
次に意識が戻ったのは、
「寝かしておいてやれ、サーシャ」
という、メリーウェザ医師の、囁きのような声がきっかけだった。
「ひどく疲労している。どうせ、すぐに仕事に戻るのだろう。家に戻らずに、ここから行けばいい――食事なら、備蓄してあるパウチを提供するよ」
開いた目の先に、青い瞳が映った。
軽く、驚きに見開かれる。
サーシャだった。
自分は長椅子に身を横たえて、寝ていたようだ。それを、身を屈めて妹が眺めていた。
「起きてしまいました、先生」
サーシャが、自分を見つめながら、困ったように眉を寄せている。
がばっと、ハルシャは起き上がった。
時間を確かめる。
ほっと、息を吐く。
まだ、半時間しか経っていない。
「ほら、君がしげしげとみるからだよ、サーシャ。そっとしておいてやれと、言っただろう」
笑いを含んだ声で、メリーウェザ医師が、なじるように言う。
「毎日見ていて、珍しいものでもないだろう。兄の顔なんてな」
ハルシャは、身を起こしたまま、床にしゃがみ込んでいるサーシャを見た。
「どうして、ここに居るんだ、サーシャ」
問いかけに、当の本人ではなく、メリーウェザ医師が返事をする。
「私が呼んだ。兄の帰りが遅いことを心配しているだろう、というのが一つ。この患者の治療を手伝って欲しいというのが、一つ」
にこっと笑いながら、彼女は振り向いた。
「さっき、メドック・システムの診断が出た。この患者の脳にもどこにも損傷はない。先ほどの見立て通り、打ち身と打撲だけだ。安心しろ、ハルシャ」
サーシャがしゃがんだまま、笑う。
「良かったね、お兄ちゃん」
青い瞳が、柔らかい笑みを作る。
サーシャはどうやら、ここまでの経緯をメリーウェザ医師から聞かされているらしい。嬉しそうに言葉をかけてくる。
早朝の急な呼び出しにも、彼女はきちんと対応していた。服を着替え、くりくりとした金色の巻き毛を、後ろで一つにまとめている。
十一になる妹は、ここ最近、ますます母親に面立ちが似てきていた。
立ち上がりながら、サーシャが小首をかしげる。
「安心したら、お腹が空いてこない? 先生に呼ばれるときに、ご飯を持ってきたよ。一緒に食べようか、お兄ちゃん」
「パウチもあるぞ」
横から、メリーウェザ医師が割り込むように、声をかける。
「倉庫を空にしていってもいいぞ」
「先生。お兄ちゃんを、残飯処理みたいに使わないでください」
「それは、聞き捨てならないな。私は親切から言っているのだ。ハルシャの労働による消費カロリーは相当なものだ。補うには、たくさん食べなくてはならない」
「先生は、珍しい味があるとすぐ飛びついて、口に合わなくて放ってあるのが、たくさんあります」
「それは違うぞ、サーシャ。医者は激務だから、食事の時間が取れない。便利だから、パウチを買うだけだ。まあ、色々チャレンジしてしまうのは、確かだが」
少し、語尾が消える。
「ほら、やっぱり。惑星ファングーラの泡立つ海風味とか、アジェンダの大蟹風味なんて、変な味のばっかりなんだから。買った人が、きちんと責任を持って食べて下さいね」
決めつけるように、サーシャが言う。
六歳でここへ来た時は、ハルシャの影に隠れるようにしていたサーシャは、五年で随分たくましくなった。
そうならざるを、得ない日々だった。
やり取りを聞いていたハルシャへ、サーシャが笑顔を向ける。
「さ、ご飯にしよう。お兄ちゃん」
「パウチもあるぞ、ハルシャ」
めげずに、メリーウェザ医師が小声で告げる。
医療室の片隅を借りて、ハルシャは、サーシャと朝食をとる。
妹が持ってきてくれた食事を口に運び、たわいない話を聞いているときだけ、ハルシャは自分が人間に戻ったような気がする。
残りの時間、自分は道具にすぎない。星々を渡る船の機械を組み立て、性欲を処理をするためだけに存在している、ただの道具。
それが、自分が選んだ道だった。
「おいしかった。ありがとう。手間をかけさせたな」
ハルシャの言葉に、嬉しそうにサーシャが笑う。
メリーウェザ医師が、これ見よがしに置いたパウチを手で、つつっと机の端に動かしながら、
「まだお仕事までには、時間があるんでしょう? もう少し休んでいったら、って、先生が」
と、サーシャが心配そうに言う。
「奥のベッドを使っていいぞ」
背中越しに、メリーウェザ医師が声をかけてくれる。
「そのパウチは、昼食に持って帰ってもらってもいいからな、ハルシャ」
持って帰れ、という圧を込めながら、ついでを装って、メリーウェザ医師が言う。
二人の攻防戦に、ふっとハルシャは笑った。
事実――
あと一時間ほど、眠ることが出来る。
「お言葉に甘えます」
ハルシャは素直に言って、立ち上がった。
寝ないと、作業に差し支える。
「おやすみなさい、お兄ちゃん。時間になったら、起こしてあげるから、安心してね」
家から持ってきた食器を片付けながら、サーシャがハルシャを見上げる。
さっさと彼女はパウチをまとめて、箱に戻していた。
「助かる。ありがとう、サーシャ」
にこっと、屈託ない笑みを、妹がハルシャへ向ける。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
この笑顔を守るためなら、どんな苦痛にも、耐えることが出来る。
手を延ばし、サーシャの頭を撫でてから、ハルシャは部屋の奥に置いてある医療用のベッドに向かう。
薄いカーテンで仕切られた区画に置かれたベッドに、ハルシャは靴を脱ぎ、潜り込んだ。
目を閉じる。
遠くから、眠りにつこうとするハルシャに配慮してか、ひそめた二人の声が聞こえる。
人の気配に、なぜか、安堵を覚える。
緊張する必要のない時間が、貴重に思えた――それほどまでに、ハルシャの日常は、張りつめた時間の連続だった。
二人の会話が、穏やかに耳に響く。
また、顔を見に行って、眠りの邪魔をするなよ、サーシャ。
行きませんよ、先生。あの時、顔を見ていたのは、心配だっただけです。
どうだかな。自分の兄は、銀河帝国一のイケメンだ……なんて、感慨にふけっていたのではないか。
違います! 疲労がひどいのを、心配していただけです!
おいおい、サーシャ、声が高い。またハルシャを起こしてしまうぞ。
もう、先生は――
メリーウェザ医師とサーシャは、年の近い親子か、年の離れた姉妹のように、仲が良い。
二人が交わす会話の温もりに、ハルシャの荒れた心が安らいでいく。
遠くに、声が聞こえる。
さてさて、仕事にかかろうか、サーシャ。ハルシャの拾い物に、手当てしないとな。
はい、先生。あ、このパウチ、朝食に食べますか?
止めてくれ。『惑星ファングーラの泡立つ海風味』は、二度と口にしたくない味だ。
後の二人の会話は、ハルシャの記憶にない。
そのまま、深い眠りに入ってしまったからだった。