ほしのくさり

余話 ~天からこぼれた物語~

ダイヤモンドの雫 Ⅲ




「おかえり」
 ジェイ・ゼルが厨房でハルシャを迎えてくれた。
 笑顔だった。
「ただいま。ジェイ・ゼル」
 ハルシャも笑顔を返す。
「いい香りだ」
「ナツメグを多めに入れてみたよ。香りが好きだと言っていたからね」

 手にしていた袋の持ち手をぐっと握りしめると、ハルシャはエプロンをつけて料理をするジェイ・ゼルの側に歩を進めた。
 近づくハルシャに優しい笑みをジェイ・ゼルが与えてくれる。
「外は寒いのかな」
 小首を傾げて彼が問いかける。
「鼻が赤くなっているよ」

 側に立って見上げると、顔を寄せて、軽く唇を触れ合わせる。
 挨拶のような優しい口づけだった。
 おや? とジェイ・ゼルが表情を変える。
「珍しいね。コーヒーの香りがするよ、ハルシャ」
 彼の灰色の瞳を見つめる。
「リュウジのところでご馳走になったんだ」
 正直に彼に告げる。
 手にしていた袋を掲げてジェイ・ゼルに見えるようにする。
「良い香りだと言ったら、リュウジがお土産に持たせてくれた。ジェイ・ゼルが好きだから、と」
 ちらりと疑念をよぎらせたが、彼は笑顔でそれを塗りつぶした。
「遅くなったのは、カラサワ・コンツェルンの本社に行っていたからなのだね」
「予定外だったが、ヨシノさんが迎えに来てくれて――少しリュウジと話してきた」
「そうか」
 ジェイ・ゼルの笑みが深まる。
「また、改めて彼らと会食をしたいね。この前は慌ただしかったから、あまり話が出来なかったね」
「リュウジもそう言っていた。サーシャとメリーウェザ先生も逢いたがっているらしい」
「なら、近いうちに段取りをつけようか」
 料理の手を止めて、ジェイ・ゼルの手が頬に触れる。
「手土産は――何が良いだろうね。一緒に考えてくれるかな、ハルシャ」

 ごく穏やかな日常の会話だった。
 何の憂いもなく日々を過ごせるのは、大きな翼に守れていたからだと、気付く。
「もちろんだ、ジェイ・ゼル」
 灰色の瞳を見つめる。
 彼はゆったりと微笑むと、顔を寄せて再び唇を触れ合わせた。
 しっとりした口づけを与えてから、離した口で呟く。
「コーヒーのお礼も言わなくては、ね」

 不意に、悲しみが内側に盛り上がって来た。
 香りの漂う中で、リュウジと交わした会話が蘇り、胸が引き裂かれそうになる。
「ハンバーグが美味しそうだ」
 唐突に、ハルシャは言っていた。
 ああ、とジェイ・ゼルが笑いながら身を離す。
「お腹が空いただろう。すぐに焼き上げるから、待ってくれるかな、ハルシャ」


 *


 和やかに夕食をとり、食器の後片付けを終えた後、ハルシャは持ち帰ったものを袋ごとジェイ・ゼルに渡した。
「ジェイ・ゼルが喜んでくれたら嬉しいと、リュウジが言っていた。豆の銘柄を書いたものを中に入れてくれているらしい」
「彼の趣味は良いからね」
 にこっと笑ってジェイ・ゼルが受け取る。
「これから、朝が楽しみだね」

 ハルシャは、彼の灰色の瞳を見つめる。
「――ジェイ・ゼル」
 袋を手にする彼の姿へ、内側から溢れたように、名を呼ぶ。
 どうかしたのかな? というように彼が微かに首を傾げた。
 口を開きかけて、ハルシャはぎゅっと閉じた。
 瞳の奥を見つめる。
「――先に、風呂に入ってきても良いだろうか」
 口にしたのは、そのことだけだった。
 ジェイ・ゼルが眉を上げる。
「ああ、もちろんだよ。外は寒いから、体が冷えただろう。ゆっくりと湯船につかっておいで」

 ラグレンでは考えられないほどの贅沢――湯を湛えた浴槽に浸かる、という楽しみを、帝星で暮らし始めてからハルシャは自分に許していた。
 当初はあまりにももったいなくて、ジェイ・ゼルに勧められても湯船に入ることが出来なかった。が、彼の腕に包まれて温かな中に身を浸す幸せが、段々日常になって来たのだ。
 最初の頃は、一緒に入ると効率が良いだろう? 二人で同時だと、お湯も冷めないからねと説得されて、ハルシャはジェイ・ゼルと二人で湯船に入ることが当たり前だった。
 だが、腕に包まれて長湯をし過ぎ、一度前後不覚になってしまったことがあったのだ。
 のぼせたらしい。
 そんな症状があることすら、ハルシャは知らなかった。
 ジェイ・ゼルは相当慌てたようだ。
 気付けばベッドの上で、身が冷やされ、ひどく心配そうに、灰色の瞳がハルシャをのぞきこんでいた。
 ラグレンでは入浴の習慣がなかったために、身体が長時間の入浴に耐えられなかったらしい。
 そのことに気付いてからは、ジェイ・ゼルは考えてくれて、別々に風呂に入ることに変更してくれたのだ。彼はとても名残惜しそうだったが、ハルシャの体には替えられないからねと、譲ってくれる。
 今では、自分のペースで風呂に入ることが出来るようになってきた。

 ジェイ・ゼルの手に袋を託して、ハルシャはきびすを返した。
 彼が袋を開いている気配を、背中で感じ取る。
 だが、何も言わずにハルシャは真っ直ぐに浴室に向かった。

 ジェイ・ゼルの趣味の石鹸で丁寧に全身を洗い、いつもよりも時間をかけて湯船につかる。
 穏やかな水の表面を、見つめる。
 ジェイ・ゼルは、渡した袋からコーヒーを取り出して、そして気付くだろう。
 別の箱が中にあることに。
 ハルシャは瞬きを一つした。
 じっと、水の表面を見つめる。

 これ以上入っていたらまたのぼせてしまう、というところまで我慢して入ってから、ハルシャは風呂を出た。
 髪を乾かし、パジャマに着替えて、鏡を覗き込む。
 大丈夫だ。
 いつもと変わらない顔だ。
 と確認してから、タオルを首にかけて浴室を出た。

 居間に戻ると、厨房から良い香りがした。
 リュウジが持たせてくれたコーヒーの香りだった。

 ドキンと、心臓が躍る。
 ジェイ・ゼルは、袋を開けて中を確かめたのだ。そして、今。
 リュウジのお土産のコーヒーを淹れてくれている。

 ドキドキと胸をとどろかせながら、ハルシャは厨房でゆったりとした動作でコーヒーを出すジェイ・ゼルの側へ行く。
 ハルシャを認めると、彼はにこっと笑った。
「あまりに良い香りだからね。朝まで待てずに早速にれてみたのだけれど」
 細い糸のように制御された湯が、漆黒のコーヒー豆の上に注がれる。
「ハルシャも飲むかな?」
 笑顔でうなずく。
「嬉しい。欲しかったところだ」
 その言葉に、ゆっくりとジェイ・ゼルが瞬きをした。
「それは良かった」

 言葉が途切れる。
 ハルシャは唇をぎゅっと結ぶと、彼の穏やかな動きを見守る。
 湯の動きにつれて、香りが辺りに漂った。
 ジェイ・ゼルは昔ながらの方法でコーヒーを淹れている。
 自動でコーヒーが抽出される機械はいくらでもあるのに、手ですることに彼はこだわった。
 実際に、どんな機械を通したよりも、ジェイ・ゼルの淹れたものは美味しい。ハルシャも教えられてしてみたのだが、同じようにしているはずなのに、味が全然違ったのが不思議だった。理由を知りたくて、時間や湯量を測り始めたハルシャに、科学実験になってしまうね、とジェイ・ゼルは笑っていた。
 そんなことを、思い出す。
 コーヒー豆に湯を注ぐ。
 たったこれだけのことなのに、実は技術が必要なのだと、驚きと共に学んだ。
 目を細めて出方を確かめていたジェイ・ゼルは、そっと上のフィルターを外した。
「お待たせ。出来たよ、ハルシャ」

 食堂の机に出来たてのコーヒーを運び、二人で向き合って座る。
 ジェイ・ゼルはブラックで飲む。
 ハルシャは時折ミルクを注ぐが、今日はジェイ・ゼルが淹れたそのままの味を知りたかった。そこでストレートで飲むことにする。
 いつものカップに注いでくれたものを、ハルシャは笑顔で受け取った。
 口に含むと、甘く柔らかな味がする。コーヒーは苦いはずなのに、ジェイ・ゼルの淹れたものは、不思議にまろやかな味になる。
 とても美味しかった。
 素直に感想を口にすると、ジェイ・ゼルは口元だけで笑みを浮かべて、ハルシャを見つめていた。
 注いだコーヒーに彼は手を付けていなかった。

 ゆっくりと息を吸い込むと
「リュウジが持たせてくれた袋には」
 と、彼は静かに言葉を呟いた。
「豆の他にも、入れてくれていたものがあるのだけれど」
 灰色の瞳が、すっとハルシャから落ちて、カップに向かう。
「ハルシャは、リュウジから何か聞いているのかな」

 中を見たのだと、ハルシャは悟る。
 豆の底に入っていた箱を、彼は取り出して中身を確かめた。
 それが、自分の遺伝子の治療薬だと、彼は正確に理解してくれたのだ。

「ジェイ・ゼルに渡してほしいと、リュウジから頼まれた」
 ハルシャはごく普通に聞こえるようにと心を配りながら呟いた。
 コーヒーカップをジェイ・ゼルは見ている。
 彼は、微かに眉を寄せていた。
「それ以外のことは、聞いていない。豆と一緒にその袋に入れて渡されただけだ。後で、リュウジがジェイ・ゼルに直接連絡を入れると言っていた」

 渾身の嘘を、つく。

 はっと、ジェイ・ゼルが視線を上げた。
 柔らかい灰色の瞳が、自分を見つめる。

 自動運転に身を任せて戻る道中、ずっとハルシャは考え続けていた。
 どうして、ジェイ・ゼルが自分に話してくれなかったか、ということを。

 話せなかったのだ、彼は。

 その想いを、受け止める。
 彼の真実は、その口からききたかった。
 ジェイ・ゼルは、伝えたいことはきちんと教えてくれる。『愛玩人形ラヴリー・ドール』であったことも、辛い過去も、本当の名前も。
 自分を信じて伝えてくれた。
 その彼が、口に出来ないことを、無理に知る必要は無かった。
 ジェイ・ゼルが話したくなる時まで待とうと、ハルシャは覚悟を決めたのだ。

「ジェイ・ゼルの淹れてくれるコーヒーは、とても美味しい」
 何とか笑顔で言う。
 カップを口に運び、飲む。
 こくんと喉が動き液体を身に取り入れる。
 ジェイ・ゼルが心を込めて淹れてくれたものを。
 この身が受け止める。


 あと。
 何回――
 彼のコーヒーを飲むことが、出来るのだろう。


 丁寧に味わってから、ハルシャはカップから視線を上げた。
 ジェイ・ゼルは無言で自分を見つめていた。

 なぜ。
 唇が震えるのだろう。
 愛する人が目の前にいて、美味しいコーヒーを飲んでいる。
 心も体も幸せなはずなのに。
 それで十分なはずなのに。
 どうして――
 コスモス畑の中で優しく囁いてくれた言葉が、胸を掻きむしるのだろう。


 独りにはしないよ。
 ずっと、君の側にいるよ、ハルシャ――


 不意に視界がにじんだ。
 悟られてはいけないのに。
 渾身の嘘を、つき続けなくてはならないのに。
 裏切るように目から涙がこぼれ落ちた。

 慌てて顔を伏せる。
「す、すまない」
 ごしごしと、ハルシャは目をこすった。
「ゴミが入ったようだ」

 その様子を黙ってジェイ・ゼルが見つめている。

「顔を洗ってくる」
 泣き顔を見られたくなくて、ハルシャは椅子を引き、立ち上がった。
 そのまま手洗いに行こうとして、身を返す。
 不意に、椅子が倒れる派手な音がした。
 次の瞬間、左腕が掴まれていた。
 あっと思う間もなく引き寄せられて、ジェイ・ゼルの腕の中に包まれていた。

 無言で彼は自分を抱き締める。
 強く。
 深く。
 身の全てを触れ合わせて、黙したまま腕に捉え続ける。
 彼の激しい鼓動が、触れ合う場所から伝わってきた。

 腕に捕らわれたまま、言葉もなく立ち尽くす。

「こうして」
 長い沈黙の後、ジェイ・ゼルがぽつりと呟いた。
「身を触れ合わせていると、幸福が内側にあふれてくる。私は君の肌の温もりを、求めずにはいられない」
 きつく歯を食いしばったあと、ジェイ・ゼルは絞り出すように、呟いた。
「そんな風に、私は作られているんだよ、ハルシャ」

 苦しげに、彼は言葉を続けた。

「君を愛しいと思う気持ちすら――プログラムされた感情なのかもしれないと思う時がある。私は人を求めるように作られている。そんな時……私を作った惑星アマンダの科学者たちに、君への想いを汚されたようで、言い知れない怒りと悲しみが湧き上がってくる」
 押し当てられた場所から、声が響いてくる。
「どんなにあがいても、生まれたときにかけられた呪詛から逃れられない。
 私は――」
 身にきつく引き寄せながら、絞り出すようにジェイ・ゼルが呟く。
「『愛玩人形ラヴリー・ドール』なんだよ、ハルシャ。この世に存在してはならない、歪な生命体だ。こんなにも、君を愛しているのに――その宿命から、逃れられない。どんなに抗っても、体の中に仕組まれたプログラムが私を支配する――おぞましいと思いながらも、従わされる……それが、私なんだよ、ハルシャ」


 知らせまいと堰き止めていた感情が、突然あふれ出したようだった。
 言葉をほとばしらせた後、ジェイ・ゼルはきつくハルシャを抱き締めた。苦痛に耐えるように、彼の身が細かく震えている。

 ジェイ・ゼルは自分に対する愛情すら、意図的に仕組まれたものかもしれないと疑いを抱いていたのだ。そのことに、深く、癒しがたく、ジェイ・ゼルは傷ついていた。
 生まれてきて良かったと、結婚した夜に言ってくれていたのに。それでも、心の底では『愛玩人形ラヴリー・ドール』である自分自身を、深く嫌悪していたのだ。

 彼が内側に秘める絶望の深さを、この時、ハルシャは初めて知った。
 
 向けられる優しさの奥で、彼はこれほどまでに苦悩していた。
 なのに、何も気付けなかった。
 与えられる言葉だけで満足し、彼が心に秘め続けた苦しみを、知ろうともしなかった。
 自分は何も見ていなかった。
 守られ、愛されることに、甘えて――
 その陰でどれほどジェイ・ゼルが苦しんできたのか、感じることすら出来ていなかった。


 ハルシャは腕を動かして、ジェイ・ゼルの震える背を抱き締めた。
 固く身を寄せ合って、無言で立ち尽くす。


 言葉の途切れた後の静寂が、長く続いた。


 もう、ジェイ・ゼルを楽にしてあげてくださいと言った、リュウジの言葉が、なぜか耳に響いた。

 彼は――このジェイ・ゼルの深い絶望を、知っていたのだろうか。
 それを、自分に悟らせまいと、微笑む彼のことを。
 リュウジは、理解していたのだろうか。


「ジェイド」
 本当の名を、ハルシャは口にした。
「私を愛することが、惑星アマンダの仕組んだプログラムだとしても――」
 びくっと、ジェイ・ゼルの身が震えた。
「私を愛してくれているのは、ジェイド。あなただ。それで、私はいい」

 震えがわずかに収まった身を、ハルシャは固く抱きしめた。

「作られたものだとしても、感じているのは、ジェイド自身だ。その感情は、あなただけのものなんだ――私の愛する、私を愛してくれるあなたは、この世で、たった一人だけだ」
 身を寄せて、唇から言葉をこぼす。
「あなたが『愛玩人形ラヴリー・ドール』として生まれたから、私たちは出会えた」
 触れる場所の温もりを、感じる。
「あなたが、あなただから――私は愛している」

 ジェイ・ゼルの荒い息遣いが聞こえる。
 彼の身に頬を寄せて言葉を続けた。

「私が愛しているのは、宝石の名前を持つ『愛玩人形ラヴリー・ドール』のジェイド・ディ・アマンダだ。あなたは私への愛を、緑の瞳で教えてくれる。いつもその瞳を見るたびに、心が震えるんだ。幸せで嬉しくて――あなたの想いが直接伝わってきて。
 惑星アマンダのプログラムだとしても構わない。それが、あなただからだよ、ジェイド」
 腕に力を込めてジェイ・ゼルを抱きしめる。
「翡翠の瞳を持つ、私の、宝物――世界でたった一人の、かけがえのない存在だ」

 美しい魂を秘めた身体を、しっかりと自分の腕で抱きしめる。

「だから、世界のどんな苦しみからも、私があなたを守ってみせる」
 ぎゅっと身を押し付ける。
「銀河帝国法からも、『ダイモン』からも、惑星アマンダの醜悪なプログラムからも、運命からも――私が、ジェイドを守る。
 あなたは、私のものだ。昔、そう、ジェイドが教えてくれた」

 顔を上げると、自分を見つめるジェイ・ゼルの灰色の瞳があった。

「その眼も、髪も、鼻も口も、身体の全てが、私のものだ――誰にも渡さない」
 右手を緩めて、そっと動かし、ジェイ・ゼルの頬に触れた。
「あなたは、私が守る。『愛玩人形ラヴリー・ドール』の宿命からも、呪いからも。私が盾となって、守ってみせる。誰にもあなたを苦しめさせない」

 彼を映す目から、涙がこぼれ落ちた。

「すまない、ジェイド。私は嘘をついた。誠実であると約束したのに、破ってすまなかった」

 ぽろぽろと流れる涙を拭うこともせずに、言葉を続ける。

「コーヒーと一緒に入っていた箱の中身のことを、私はリュウジから聞かされていた」

 ジェイ・ゼルが表情を消して、自分を見つめる。

「言いたくないことを、無理に言わせてはいけないと、嘘をついた。でも、私が間違っていた。
 決断をあなたに委ねることで、苦しい判断をジェイド一人に背負わそうとした。
 あなたは、きっと一生言わない。
 だから――リュウジは私に話してくれたんだ。あなたを、楽にするために」

 見つめ合ったまま、ハルシャは言葉を続けた。

「リュウジが教えてくれた。『愛玩人形ラヴリー・ドール』は意図的に短く寿命が設定されていると。その寿命を何とか伸ばそうと、二年もの間、リュウジも研究所も、ジェイドも努力を積み重ねていた。私は何も知らなかった。
 言えなかったのは、私があなたに甘えていたからだ。
 許してくれ、ジェイド。一人でずっと、苦しい秘密を背負わせてしまった」

 抑えがたく、涙がこぼれ落ちる。
 声を震わせながら、ハルシャは懸命に続けた。

「渡してくれたのは、細胞の自死プログラムを阻害し、あなたの寿命を延ばす可能性を秘めた治療薬だ。
 まだ、治験もしていない状態なので、どんな副作用が出るか解らない。それを、あなたが独りで抱えて苦しむことが辛いと、リュウジは言っていた。
 だから、全ての真実を話してくれたんだ。皆で、乗り越えて行こうと」
 声が震える。
「お願いだ、ジェイド。全てを一人で抱え込んで苦しまないでくれ。私にもあなたの荷物を背負わせてくれ。一緒に歩ませてほしいんだ。お願いだ、ジェイド。私は……」

 たとえ、煉獄にでも、あなたと一緒に行きたい――

 言いかけた言葉は、ジェイ・ゼルの唇で塞がれていた。
 激しく、魂を絡めるように、唇で互いを貪る。
 長く深く温もりを分かち合ってから、ジェイ・ゼルが離した唇で呟いた。

「許してくれ、ハルシャ。どうしても、言うことが出来なかった――君を……」

 眉を寄せ、見つめる灰色の瞳に、透明なものがあふれた。

「私は、独りにしてしまう……」

 頬に、温かな手の平が触れた。
 盛り上がった涙が、ジェイ・ゼルの頬を滑る。

「こんなにも愛しているのに……私は君を、残してかなくてはならない。なぜ……君の側に、ずっといられないのだろう。どうして、私は『愛玩人形ラヴリー・ドール』なのだろう。思っても仕方のないことを、考え続けて――言葉に出来なかった。すまない、ハルシャ。君に誠実であろうとしていたのに……自分の真実を、どうしても話すことが出来なかった……君を、苦しめたく……なかった。許してくれ、ハルシャ」

 ずっと胸の奥に閉じ込めていた苦悩が、透明な雫となってこぼれ落ちる。
 初めて見る、ジェイ・ゼルの涙だった。


 ジェイ・ゼルの心からあふれた涙は、とてもきれいだった。
 初めて自分に見せてくれた美しい雫は、きらめいて硬質な――ダイヤモンドにも似ていた。
 手を伸ばして、彼の頬に触れる。
 温かな涙が指に沁みとおるようだった。

「愛している、ジェイド」
 涙で潤んだ、灰色の瞳を見つめる。
「一人で全てを背負わせてすまなかった。これから一緒に――乗り越えて行こう。大丈夫だ。リュウジもいてくれる。みんな、あなたの味方だ」

 顔を寄せて、彼の涙に唇で触れる。
 太古の海と同じ成分を宿した、美しいダイヤモンドの雫。
 自分を想って流してくれた、透明な宝石。
 これほどまで深く、自分は愛されていた。

 唇を浸して、そっと呟く。
「大丈夫だよ、ジェイド。きっと薬は良く効く」
 彼の優しさに向けて、言葉を滴らせる。
「この先、あなたとなら、どんな苦しみも越えていける」
 病める時も、健やかな時も、決してこの手を離さないと自分は宇宙に誓った。
「だから、お願いだ。ジェイド。もう、一人で苦しまないでくれ。あなたの側には、私がいる」


 答えの代わりに、唇が覆われていた。
 交わす口づけは、塩辛い味がした。
 雪の中で交わした誓いのように、清らかな触れ合いだった。

 唇を離すと、ジェイ・ゼルは優しく腕の中にハルシャを包んで沈黙した。
 温もりを抱き締めて、ハルシャも黙する。
 互いの体温で、激した心を慰撫するように、ただ身を寄せ合って呼吸を聞き合っていた。


 長い沈黙の後、ゆっくりと腕が解かれ、ジェイ・ゼルがハルシャの髪を撫でた。
「来年の冬も」
 呟きながら、彼は微笑んだ。
「その次の冬も、十年後の冬もその先も……一緒に初雪を見よう。ハルシャ」

 いつか、そのどこか先の未来で。
 側にあなたがいなくても。
 私はあなたの思い出を抱き締めて、きっと微笑んで初雪を見る。

「解った。約束だ、ジェイ・ゼル」

 残された時間がわずかだとしても、誰よりも幸せだと思ってもらえるように、大切に日々を生きていこう。思い出の中で、共に過ごした時間が、宝石に変わるように。

「ずっと一緒に、初雪を見よう、約束だ」

 共に背負う苦しみは、苦痛ではない。
 その分あなたが楽になるのだと思えば、喜びになる。
 あなたが守ってくれたように、私も命の限り、あなたを守る。
 だから――
 最期の瞬間まで、笑っていてくれ、ジェイド。

「雪だるまを作ろう、ジェイ・ゼル」
 微笑みながらハルシャは言った。
「家の周りにたくさん……雪が降ったら、一緒に。来年も、その次の年も」

 ジェイ・ゼルが微笑みを返す。

「そうだね。古いマフラーを巻いてあげると、雪だるまも寒くないかもしれないね」
 思い出に、ジェイ・ゼルが笑う。
「初めて一緒に作った時、外に置いたままだと可哀そうだと君は言っていたね、ハルシャ」

 愛しそうに、言葉が滴る。
 目を細めて、髪から手を滑らせると、ジェイ・ゼルが頬を両手で包んだ。

「雪ウサギと言うのもあるんだよ」
 頬を撫でながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「来年、雪が降ったら教えてあげようね。とても可愛らしいよ。赤い実を目にして、葉を耳に見立てるんだ」

 未来のことを、二人で語る。

「ぜひ教えて欲しい。一緒に作ろう」
「そうだね。手袋をして、作ろうか、ハルシャ」

 灰色の瞳を見つめる。
 重い枷から解き放たれたように、彼の瞳はとても穏やかだった。
 それだけで、幸せだった。
 来年も、再来年も、十年後も。
 あなたの傍らで、誰よりも幸せに、自分はきっと笑っている。
 最期の瞬間、ジェイ・ゼルが見る自分も笑顔であるように。
 強く、強く、願うように誓う。


「来年一緒に、雪ウサギを作ろう。約束だね、ジェイ・ゼル」





(了)


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