※前話『家族になる日』より、一ヶ月ほどたった、ある日の出来事の物語です。
※シリアス要素が強いです。ご注意ください。
(全三話です)
「急にお呼び出しして、申し訳ありません、ハルシャ。ご予定を変えさせたのではありませんか?」
自分の姿を見た途端、リュウジは椅子から立ち上った。
大きな執務用の机を回り、部屋の入り口まで迎えにきてくれる。
開口一番、突然呼びつけた詫びを彼は口にした。
「大丈夫だ」
ハルシャは首を振って彼の危惧を解く。
「今日はたまたま仕事が早く終わったから――」
「ご迷惑でなければ良かったです。どうぞ、中へ」
リュウジは微笑みながら、丁寧に自分を副総帥室へと迎え入れた。
重厚な調度で統一されたリュウジが執務をする部屋へ、ハルシャは一歩を踏み出した。
リュウジに言ったように、今日は早くに仕事が上がって、定時には職場を辞去できそうだった。その知らせをジェイ・ゼルに入れる前に、リュウジの腹心、ヨシノさんがハルシャの仕事場に姿を現わしたのだ。
彼は、リュウジからの伝言を携えていた。
急なことで申し訳ありません、ヴィンドース様。
通話装置で果たせない用件らしい。
自分を連れてカラサワ・コンツェルン本社に戻るよう、リュウジはヨシノさんに言い含めていたようだ。ハルシャが承諾を伝えると、ヨシノさんは言葉優しく、それでは私がこれから本社へお送りいたします、と告げた。
話が終われば、またこの職場に戻ってきてくれので、自分の飛行車はここに置いたままで構わないようだ。
伝言の形を取っているが、のっぴきならない用事が出来て、リュウジは自分に会いたいのだろうと推測する。
そんな顔を、ヨシノさんはしていた。
そして――帝都ハルシオンで、ひと際威容をたたえるカラサワ・コンツェルンの本社へと、ハルシャはリュウジの高級車でやってきたのだ。
直接伝えたいこと。
という言葉に、ハルシャは少なからず心配を抱いていた。
まさか。
サーシャに何かあったのだろうか。
だからわざわざ自分を呼び出したのだろうか。
通信装置越しには伝えられないほど、重要な要件のような気がした。
リュウジが何を自分に伝えようとしているのか、考えるだけで心臓がドキドキとする。
「仕事上がりにお連れしたので」
リュウジが昔と少しも変わらない、優しい声で自分を労わる。
「さぞおくたびれでしょう。コーヒーでもいかがですか?」
何となく感じる。
リュウジは何かをハルシャに伝える前に、ワンクッションを入れたいようだった。本題に入る前に少し時間が欲しいと、言外に彼が伝えているような気がした。
「ありがたい。お願いできるだろうか」
ハルシャの言葉に、リュウジがにこっと笑う。
「
「はい、
エスコートするように迷路のような本社内を案内してくれたヨシノさんが、身を折って静かに扉から出て行った。
彼が出た後、扉が自動で閉まる。
リュウジはヨシノさんが去った後、一瞬黙り込んでから、顔をこちらに向けた。
「座って下さい、ハルシャ」
いつもの明るい笑顔だった。
優しく腕に触れ、リュウジはハルシャを副総帥室の応接用の椅子へと
「お仕事は順調ですか?」
歩きながら彼は尋ねてきた。
「今開発中の、駆動機関部がようやく完成の
明るい話題を提供できることに喜びながら、ハルシャはリュウジに告げる。
「今日報告書を上げたから、もうすぐリュウジの手元に届くと思う」
リュウジとは義兄弟の関係だが、仕事上は彼が雇い主だった。
最初の頃は、リュウジの七光りで仕事を与えられたと思われ、少し苦労した。だが、やがて皆が認めてくれるようになり、今では職場で快適に過ごすことが出来ている。ラグレンでの昔を思えば、天国のようだった。
リュウジは静かに微笑んだ。
「それは、とても楽しみですね」
透明な小卓を挟んで、向き合う位置にハルシャとリュウジは座を占めた。
これから、何をリュウジが話そうとしているのか――と考えると、妙に緊張してしまう。
極上のソファーに身を沈めながら、ハルシャは無意識に前で指を組んだ。
その手を、リュウジが見つめていた。
視線の先にあるものに気付く。
左の薬指にはめている、金色の線彫りが施された指輪だった。
婚姻届けを提出した夜、ベッドの中でジェイ・ゼルが渡してくれたのだ。
この指輪を、リュウジが見るのは初めてだった。
何となく、頬が赤らむ。
リュウジの藍色の瞳が、静かに金色の輪を映している。
「――あ、リュウジ」
沈黙を破るように、ハルシャは口を開き、口早に告げた。
「この前は、保証人になってくれてありがとう」
リュウジの眼が、指輪から滑らかに動き、ハルシャの顔へと向かう。
ますます顔が赤くなってしまった。
「無事に、届けを出すことが出来た」
一応、通話装置を通じて報告しているが、顔を合わせてもう一度礼を言いたかった。思いを汲み取ったのか、優しい笑みがリュウジの顔に浮かぶ。
「本当に良かったです。ハルシャの結婚の保証人になれたことは、僕の生涯の誇りです」
穏やかな言葉に、思わずハルシャも笑顔になる。
「リュウジとメリーウェザ先生に後ろ盾になってもらったようで、私もとても心強い」
ひとしきり、その話題で盛り上がる。
ジェイ・ゼルの詩集のことに、リュウジが不意に言及した。
「とても売り上げが好調らしいです。サーシャも心配していたようで、出版元へ問い合わせを入れたのですが、編集の方も驚くほどの売れ行きだそうです」
ハルシャは、自分のことのように嬉しかった。
頬を赤らめる姿を見つめてから、リュウジがふと視線を落とした。
「ジェイ・ゼルは発行日を指定していたのですね。そのために、随分色々な作業を急がせたとか。それも出版を許可する条件の一つだったようですが……」
裏話のようにリュウジが告げる。
知らなかった。
「そうなのか?」
「はい」
明瞭に答えてから、リュウジは視線を上げた。
「後から気付きました。ハルシャと結婚する日を、ジェイ・ゼルは発行日として指定していたのです。彼なりの――あなたへの贈り物だったのかもしれませんね」
最愛の人へ
献辞にそう書かれた詩集を、結婚した次の日にジェイ・ゼルは自分に贈ってくれた。確かに奥付の発行日は自分たちが婚姻届を出した日と同じだった。
知らされた事実に、驚きを越えて感動が湧き上がる。
一言も、ジェイ・ゼルはそんなことを言わなかった。
ただ。
詩集が出来上がったよ、と見せてくれたのだ。
偶然だと思っていた。
まさか、わざわざ日にちを合わせてくれていたとは、気付きもしなかった。
「……知らなかった」
呻くように呟いたハルシャの言葉に、リュウジはふっと切なくなるような笑みを浮かべた。
「あなたには、一言も告げていないのですね」
藍色の眼を細めて、リュウジが独り言のように呟く。
「実に、彼らしい」
呟いた後、リュウジは再び視線を落とした。
短い沈黙の後、彼は静かに問いを呟いた。
「ジェイ・ゼルは――お変わりありませんか」
不思議に重い問いかけだった。
時々、リュウジはジェイ・ゼルの体調をひどく心配して自分に訊いてくる。
元気なのか。
調子を崩していないか。
普段と違う様子は見えないか。
最初の頃は、服役中に体調を崩していたことを心配しているのかと、単純に考えていた。だが、二年以上たった今でも彼は同じ質問をしてくる。
それも、ハルシャがリュウジと二人だけの時に。
サーシャもジェイ・ゼルもいないところで、彼は必ず質問を口にした。
「元気にしている」
今朝のジェイ・ゼルの様子を思い浮かべながら、ハルシャはほんのり微笑んで伝える。
「いつも彼のことを心配してくれて、ありがとう。リュウジ」
ぴくっと、リュウジの眉が震えた。
妙に強張った顔で、彼は沈黙を続ける。
違和感を覚えた時に、
「失礼します。飲み物をお持ちしました」
と扉越しにヨシノさんの声が聞こえた。
「入ってくれ、
入室の許可を与える言葉に、扉が左右にすっと開く。
香り高い飲み物の匂いが、ふわっと空気の流れに乗ってここまで届く。
ジェイ・ゼルはコーヒーのような嗜好品が好きだった。
毎朝豆から淹れてくれる。彼の講釈を聞くうちに、ハルシャも随分コーヒーに詳しくなってきた。
ヨシノさんが運んでくれたコーヒーはとてもいい香りだった。
興味を持ったことを表情から読み取ったのかもしれない。
「この香りが気に入ったのですか、ハルシャ?」
リュウジが、笑いを含んで言う。
「最近愛用しているブレンドなのです。良かったら、豆を持って帰りますか? 確か、ジェイ・ゼルもコーヒーが好きでしたね」
その言葉に、笑みがこぼれる。厚かましいかもしれないが、リュウジの申し出に甘えることにした。
「喜ぶと思う。お願いしても良いだろうか」
「もちろんですよ」
自分たちの前に器を置いて控えるヨシノさんに、リュウジは声をかけた。
「ハルシャが持って帰れるように、用意しておいてくれるかな、
「はい、承知いたしました」
「それと」
リュウジは静かな声で続けた。
「僕が呼ぶまで、一切連絡を取り継がないでくれ。たとえそれが総帥でも、だ」
不思議に峻厳な言葉で、リュウジが命じている。
「心得ました」
ヨシノさんが会釈をしてから、静かに部屋を出て行った。
彼が去った後、奇妙な沈黙が二人の間に横たわった。
何か用事があって呼び出したはずなのに、リュウジは中々口を開かなかった。
時が凍ったように、リュウジが一点を見つめて動かない。
湯気の立つカップを前にして、ただ黙し続ける。
話が終わるまで誰にも邪魔をさせるなと、リュウジはヨシノさんに命じていた。それほど重要なことなのだ。
じわっと、暑くもないのに額に汗が滲む。
組んでいた指をほどいて、ハルシャは手を握りしめた。
「リュウジ――」
何かを言わなくてはならないという責任感だけで、ハルシャは口を開いた。
「コーヒーを飲みませんか」
さらっと、リュウジが言葉を呟いた。
「冷めてしまいます。
リュウジは、猶予が欲しいのかもしれない。
なぜ、ここへ自分を呼び出したのか、理由を問い詰める矛先を収めて、ハルシャはカップを手に取った。
本当は美味しいはずなのに、妙に味が感じられない。
義務的に口に含んでから、ハルシャは器を小卓に戻した。
「サーシャに、何かあったのか、リュウジ」
堪え切れずに、ハルシャは問いかけていた。
「わざわざここに呼んだのは、人に聞かれたくない話なのだろう」
以前、リュウジに聞いたことがある。
この副総帥室は、どこよりも安全だと。万全の盗聴防止対策が取られているらしい。
「サーシャ?」
驚いたように、リュウジが問い返す。
「違うのか?」
逆に問い直してしまった。
リュウジは、沈黙した後、静かに首を振った。
「違います。サーシャは無関係です」
断言した後、彼は奇妙な沈黙を保ち続ける。
手にしていたカップを彼も置くと、ふっと視線を逸らした。
「ハルシャは」
言ってから、次の言葉までに、一瞬彼は唇を噛んだ。
小さな息を吐いて、視線を向けないままに言葉を続ける。
「『
リュウジが放った言葉の意味が、すぐにハルシャには理解出来なかった。
――『
ゆっくりと、リュウジの話したことが体の内側に沁み込んでくる。
――意図的に短く設定されているのを、ご存知ですか。
頭の中が、真っ白になった。
どうして、急にリュウジはこんな話題を出してきたのだろう。
彼の思惑が理解できない。
だが、衝撃が引いた後、妙に冷静になる自分が居た。
下手なことを口走ってはいけない。
リュウジは、ジェイ・ゼルが帝国法違反の『
自分は誰にも話したことがない。
だから、リュウジはジェイ・ゼルのことを言っている訳ではないはずだ。
単に知識を尋ねているだけかもしれない。
ここで自分が挙動不審になれば、リュウジに気付かれてしまう。
リュウジは勘が鋭い。
ジェイ・ゼルが自分にだけ教えてくれた真実を、漏らすわけにはいかなかった。
覚悟を決めると、ハルシャは口を開いた。
「――『
ジェイ・ゼルが、言っていた。
たとえハッタリでも、言い張り続ければ相手は信じると。
ジェイ・ゼルの過去を暴露することなど出来ない。
この身を盾にしても、彼を守り抜きたかった。
「初めて聞く言葉だ」
必死に告げたハルシャに、ふっとリュウジが眉を寄せた。
「あなたも、僕に嘘を吐くことがあるのですね、ハルシャ」
瞬きを一つしてから、リュウジがゆっくりと視線を自分に向けた。
「それほどまでに、ジェイ・ゼルが大切ということなのでしょうね。誠実なハルシャが、僕に嘘を言うほどに」