瞬間、ハルシャはジェイ・ゼルの腕にさらうようにして、抱えられていた。
首に廻した腕に力を込めて、ハルシャは彼の動きに身を任せる。
この家に住んでから、これほど性急な彼の姿を見るのは初めてだった。
この二年間、ジェイ・ゼルは労りを施しながらいつも自分を抱いた。
かつて教えてくれたように、腸壁が傷つくのを慮ってか必ず間隔を開け、三日に一度のペースで身を合わせてくれる。
決して手荒いことをせず、穏やかで優しさに満ちた交わりしか、彼はしなかった。
けれど。
今の彼は、かつてのような渇望を全身に溢れさせて、自分を求めていた。
これまでジェイ・ゼルは鉄の自制心で、自身を御していたようだ。
その制御を外して、大股に彼が歩いていく。
触れる肌から感じる。
激しい嵐のような――剥き出しの魂が、愛し合いたいと叫んでいた。
自分の言葉の何かが、彼の自制心を突き崩してしまったようだ。
身を震わし衝動を抑え込みながら、彼はハルシャを手洗いに運んだ。
ここで暮らし始めてから、身を清めることを全てハルシャは、彼の手に委ねていた。そちらの方が、内部が傷つかなくていいとジェイ・ゼルが主張したからだ。
まだ羞恥が拭い去れないままに、それでもハルシャは彼の心を汲んで体を任せた。
彼の手はいつも優しかった。
これも愛の行為の一つであるように、丁寧にハルシャの中を清めていく。
今も――荒々しい激情に駆られながら、それでもジェイ・ゼルの手は、やはり優しくハルシャに触れた。
馴染んだ動きに身が反応する。心よりも体の方が、これから与えられる行為のことを理解しているようだ。
愛してくれるのだと、体の奥深くが甘く痺れていく。
潤んだ眼でジェイ・ゼルを見つめていたらしい。微かに顔を歪めてから、ジェイ・ゼルが唇を覆った。
身を震わせ、荒い息を吐きながら、彼が自分自身を必死に制御しているのを感じる。
「もう少しだから、そう煽らないでくれないか、ハルシャ」
離した口で、小さく呟く。
瞳の奥に揺らめく炎が、ハルシャの中にも火を点した。
彼が欲しかった。
内側が、彼の熱を欲してうずく。
離れた熱を追うように、自分から口を合わせて、彼を夢中で貪る。
息が荒くなる。
その中でも、彼の手は丁寧に準備を重ねていく。
数度液を入れ替えた後、再びハルシャはジェイ・ゼルに抱き上げられていた。
彼が向かったのは、風呂場だった。
水の豊富な帝星では、ラグレンでは考えられないほど入浴施設が整っている。
ジェイ・ゼルはハルシャをシャワーの下に運び、清めた後の身体を、さらに湯で洗ってくれる。
降る温水を、服を着たままジェイ・ゼルも共に浴びる。
濡れることなど気にせずに、覆うようにしてジェイ・ゼルが唇を合わせて来た。
無心にハルシャは彼に応えた。
打ち付ける温かな水は、惑星ガイアに降る雨のようだった。
七年の別離の後、再会をした二人は、その足で惑星ガイアへ赴いた。
約束した通りに、波打ち際を手を繋いで歩き、天から降る雨を二人で浴びた。
身を冷やす雨の中、触れる肌が熱かった。
合わせた水を含んだ唇は甘く、心を蕩けさせる。
その時の記憶が蘇ってきた。
「ハルシャ――」
降り注ぐシャワーの中で、ジェイ・ゼルが小さく呟く。
「壁に手をついてくれないか」
切羽詰まった声だった。
「ここで愛し合いたい」
ジェイ・ゼルの言葉にこもる情欲が、身の内に痺れを呼び起こす。
「すまない――今すぐ君の中に入りたい」
耳に寄せた唇から、欲望を滲ませた言葉が滴り落ちる。
柔らかくもう一度唇を合わせた後、彼の手にうながされて、ハルシャは壁に向きあった。手の平を、冷たい浴室のタイルに触れる。
背を向けたハルシャの首筋に、柔らかくジェイ・ゼルの唇が落とされた。びくっと背を反らして反応してしまう。
下は脱いでいるがまだ上着は着ていた。濡れて張り付く服越しに、するっと背中を撫でてからジェイ・ゼルが動いた。
彼は浴室の棚に向かい、何かを手に戻ってきた。
いつものぬめりのある液の容器がその手にはあった。
浴室にも置いていたのだ。
シャワーにまだ打たれるハルシャの身に軽く触れてから、
「ハルシャ。足を開いて、力を抜いて――」
と後からジェイ・ゼルが耳元に呟く。
言われたとおりにすると、いつもよりもたっぷり目に指に含んだぬめりのある液が、先ほど清められた後孔に塗りこめられていく。
立ったままで、後ろをほぐされるなど初めてだった。
未知の感覚に背中が反り、快感を拾う。
「うあっ、はあっ」
甘い息を漏らすハルシャの首筋に、再びジェイ・ゼルの唇が触れる。
全身ずぶ濡れのまま、後孔にハルシャは彼の指を受け入れた。
打ち付ける細かな水の粒の刺激にすら、肌が反応する。
彼の指から得る快楽に、ハルシャは壁にすがったまま、身を捩った。
「ああっ、ジェイド。んっ、あっ……んんっ」
愛し合う時には自然に彼の本名が口からこぼれる。
彼の本質に触れたいと、願ってしまうからだろうか。
そのことが、さらにジェイ・ゼルを駆り立てたようだ。
「――っ。あまり、煽らないでくれ」
苦しげな低い呟きが、口から漏れた。
今すぐ入りたいと言いながらも、彼は丁寧に後孔を寛げようとしている。いつもよりも多く液を塗り込んで、震える手でほぐす。
その思いやりが、愛しかった。
軽く捩じる様にして、ハルシャは壁に体重を預けたまま、顔をジェイ・ゼルに向けた。
彼は真剣な目で自分を見ていた。
降り注ぐ湯に、彼の髪が張り付き黒髪が色を深めている。
髪から滴り落ちる水が、頬を伝って落ちていく。
水の行方を目で追っていると、唇が覆われていた。
そのままの状態で、彼の指が中で動くのを感じる。
息が荒くなっていく。
柔らかな指の動きに、切望するように思いが込み上げてきた。
身を打つ湯よりも熱いものを、内側に感じたかった。
彼が欲しかった。
望んだとおりに――今すぐ挿れてほしかった。
渇望が、喉から絞り出すように、あふれ出る。
「あなたが、欲しい」
合わせた口の間に懇願を忍び込ませる。
「挿れて……ほしい、ジェイド。お願いだ」
小さな呟きに、くっとジェイ・ゼルの喉が鳴った。
指が抜かれた。
背に身を寄せると、
「挿《い》れるよ、ハルシャ」
と、彼は耳元に囁いた。
壁に手をついたまま、腰が引き寄せられる。腰を少し突き出したような形になったハルシャの後に、熱いものが触れた。
ぶるっと身が震える。
そのままゆっくりと、ジェイ・ゼルが自身をハルシャの中に沈めていく。
「あああっ!」
ハルシャは自分の中に割入ってくる熱に、身を反らして思わず声を放っていた。
立ったまま彼を受け入れるのは、初めてのことだった。
足がブルブルと震えた。
これほど荒々しく身を引き寄せられ、中を穿たれるのなど、どれほど久しぶりだろう。
制御を外した彼の本質的な荒々しさを、合わせた肌から感じ取る。
濡れそぼちながら、一つに繋がり互いを貪る。
深い。
最後まで収めた彼は、かつてないほど奥に当たっているような気がする。
壁についていた手をぐっと拳に握り、ハルシャは彼の大きさに耐えた。
「動くよ、ハルシャ」
後ろから彼を受け入れることは、もう苦にならない。それでも見えないことに恐怖を抱かないように、ジェイ・ゼルはいつも丁寧にこれから何をするのか、言葉をかけてくれる。ハルシャを安心させるかように。
宣言通り、彼がゆっくりと動き始めた。
やはり、深い。
奥を突かれるたびに、ハルシャはびくんと身を反らして反応してしまう。
しばらくゆっくりと動いてから、彼は次第に速度を上げてきた。
急に右の足が、後ろから掬うように膝を腕に取られ、抱えあげられる。
瞬間、ハルシャは虚空に叫んでいた。
より体を開く形になり、ジェイ・ゼルがさらに深いところまで腰を入れてくる。
左足一本で身を支え、壁に両手をつく不安定な姿勢で、彼を受け入れる。
揺さぶられ、奥を穿たれる。
水音に負けないほどの声で、ハルシャは叫び続けていた。
ジェイ・ゼルの左の手が後ろから回されて、胸の尖りに触れた。
快感が、背中を駆け抜ける。
「ああっ!」
一層高い声が口から溢れた。
絶え間なく打ち付ける水に、肌が粟立つほどの快感が立ち上ってくる。
緩みなく迷いなく、ジェイ・ゼルが自身を打ち込み続ける。
長い抽挿に耐えていた左足が、動きの激しさに痙攣を始めた。
全身が、愉悦にむせぶようだ。
「ジェイド……ああっ、ジェイド、もうっ! ああっ」
懸命に達しそうなことを伝えると、彼が一瞬動きを止めた。
不意に、彼の昂ぶりが身の内から抜かれた。
あまりないことだ。
理由を推察することも出来ずに、ぼうっとしているハルシャの身が彼の腕に包まれ、反転させられていた。
手をついていた壁に、今度は背中を預ける。
背中に壁の存在を感じた時、向き合ったジェイ・ゼルが唇を覆っていた。
そのまま、今度は左足が前から抱え上げられ、深く寄せたジェイ・ゼルが、再び後孔に自身を押し込んだ。
足を片方抱え上げられ、身を深く合わせながら、ジェイ・ゼルが再び動く。
押し上げられるように揺さぶられる。
ハルシャは自由になった両腕を、ジェイ・ゼルの首に絡ませた。
唇を貪り、彼の熱いものに奥を穿たれながら、紛れもない快楽の声が溢れる。
「うっ、うっ、ううっ」
彼の律動に合わせて声が出る。
内側に熱が溜まって来た。もう引き返せないところまで、自分が来ているのが感じられる。
達しそうだ。
言葉にならない言葉を、彼の合わせた唇に呟く。
眉を寄せて、内側にあふれてくる絶頂の予兆に耐える。
ジェイ・ゼルの左手が不意に動いて、突然ハルシャの昂ぶりを捌き出した。
悲鳴のような快楽の声が上がる。
揺るぎない力で、ジェイ・ゼルがハルシャを頂点へと
激しくジェイ・ゼルが自分自身を、ハルシャの中に押し込む。
摺り上げられる手が止まらない。
熱い。
肌も、身の内も、唇も。
どこもが、熱く、触れる全てが重く熟れていく。
容赦ない動きで彼が、熱を穿ち、昂ぶりを捌く。
内側を破って外に出ようとするかのように、快楽の塊が、身を震わせながら激しくせりあがって来た。
耐えられない。
きつく目を閉じ、眉を寄せると、ハルシャは叫んだ。
「ああっ! ジェイド!」
ぐっと激しく身の内に彼が入り、その刺激でハルシャは悲鳴とともに精を吐いていた。
「――ハルシャ」
重く低い呟きと共に、奥に彼の熱いものが弾けた。
再びハルシャは快楽に鳴いた。
濡れた服を掴むようにして、固く抱き合う。壁にもたれ彼の身体が作る空間に入れ込まれながら、ハルシャは肩に顔を埋めて、内側の嵐に耐えた。
びくっ、びくっと身が震える。
しばらく無言で身を合わせたまま、シャワーに打たれていた。
ゆっくりと抱え上げられていた足が、降ろされ、ジェイ・ゼルは手を伸ばしてシャワーを止めた。
不意に訪れた静寂の中、身を静かに離して、彼を見つめる。
彼の目は、鮮やかな翡翠の色に変わっていた。
いつもよりも、色が濃いような気がする。
息が出来ないほどの愛しさに突き動かされながら、
「ジェイド」
と、彼の名を呼ぶ。
柔らかく、彼が微笑んだ。
嵐が去った後の、凪いだ海のような穏やかな笑みだった。
「君があまりに可愛いから、抑えが利かなかったよ。無理をさせてしまったね」
ちゅっと、音をさせて唇が触れ合う。
「次はきちんとベッドで愛し合おうか。ゆっくりと、丁寧に」
誓うように、彼は呟いた。
だが。
その「次」というのが、わずか十分後のことだとは、ハルシャは思ってもみなかった。
濡れた服を脱ぎすて、身を拭くのもそこそこに、ジェイ・ゼルはハルシャをベッドに運んだ。
誓い通りに、今度はベッドの上で、優しく丁寧に愛撫を与え、慈しむように交わった。快楽に鳴くハルシャを静かに見つめながら、翡翠に眼を染めたままで彼は深く優しく愛してくれた。
ハルシャを覆うようにして彼は絶頂を迎えた。
静寂の中で互いの呼吸だけを聞く時間が、再び訪れた。肌を触れ合わせて余韻に浸る。
言葉が必要ないほどの、安らぎに包まれていた。
微睡に入りそうなハルシャの髪を、優しくジェイ・ゼルが撫でた。
目を開くと、微笑む顔があった。
「いつも、君は私を夢中にさせる。初めて出会った時から、ずっと」
ひどく愛しげに彼が呟く。
「私は君だけを、求めてしまう――」
額にそっと唇が触れた。
なぜだろうね。
と答えのない問いを、彼は呟いたような気がした。
額から唇を離すと、ジェイ・ゼルが静かに動いた。
行為の後は疲労して動けないハルシャのために、終わった後の処理をしてくれるのだ。濡れた温かなタオルを手にして戻ると、身を丁寧に拭ってくれる。
その手が優しいことに、いつも心の底が温かくなる。
「赤くなって、腫れてしまったね」
後孔を拭きながら、彼が悔いるように呟く。
「乱暴に扱ってすまなかった。痛くないか」
大丈夫だと答えたハルシャに、まだ眉を寄せたまま、ジェイ・ゼルは薬を塗ってくれた。
作業をすべて終えてから、裸で動いたために冷えた身を、ジェイ・ゼルがハルシャの横に滑り込ませた。身を寄せて、彼の冷えた肌を温める。
ジェイ・ゼルが応えるように、腕に包んでくれた。
言葉の必要ない静寂の後、
「食事の後片付けがまだだった」
と、ハルシャは思い出してジェイ・ゼルに告げる。
「もう少ししたら、動けるから――」
食事は二人とも終わっていたが、食器を片付けていない。ハルシャはそれが気になってしまった。
くすっとジェイ・ゼルは笑って、片手を伸ばすと、ハルシャの身を滑らかなシルクの布団で覆った。
「朝でいいよ。気にしなくて大丈夫だからね」
まだ彼はくすくすと笑っていた。
「ハルシャは本当に真面目だね」
食事の後はきちんと片付けましょう。それが礼儀ですと、教えられてきたからだった。
食べたままで食器を放置していることが妙に罪悪感を生む。
自分の葛藤を見抜いたように、笑みを浮かべたまま
「君を腕に包んでいたいんだ――少し大人しくしていてくれるかな」
と、ジェイ・ゼルが優しい声で言った。
翡翠に染まった眼で、彼が見つめてくる。
言葉の穏やかさとは裏腹に、瞳の中に深い炎があることに、不意にハルシャは気付いた。
どうして、これほど彼が激しく求めたのか――思い出す。
身を合わせた後も消えない熱が、彼の内側にまだあるのだ。
体の力を抜くと、ハルシャは温もりの中に身を委ねた。
承諾を感じ取ったのか、彼も寛いだように、ベッドに背を預ける。
身を寄せ合ったまま、天井を二人で見つめていた。
「君を」
不意にジェイ・ゼルが口を開いた。
「私に縛り付けて良いのかと、ずっと疑問に思っていた」
同じところを見つめながら、彼は言葉を続けた。
「もっと君には別の幸せがあるのではないか――私の幸せのために、君を犠牲にしているのではないかと、考え続けていた」
言葉を差し挟まずに、ハルシャはただ、彼の心の奥の呟きに耳を澄ませる。
「君から離れられないのは私だ」
頭を預けていた腕が動き、彼に引き寄せられる。
「本当は君の背には翼があるのに――私のために地上に留まっている」
途切れた言葉の後、長い静寂が続いた。
「この家を最初に見た時」
ハルシャは沈黙を破って口を開いていた。
「ああ、ジェイ・ゼルが喜びそうだな、と思ったんだ。部屋を横切るあなたの姿が見えるようだった。
この家に二人で暮らせたらどれだけ良いだろう――そう思ったら、矢も楯もたまらず購入してしまった。一緒に過ごす未来だけを楽しみに、生きてきた」
顔をジェイ・ゼルに寄せる。
「あなたに逢えない七年は、長く辛かった」
呟きが、魂の底から溢れだす。
「信じられないほどに、苦しかった。けれど、必ず逢えると信じていた。それだけが、支えだった」
途切れ途切れにしか、言葉が絞り出せない。
「もう、独りにしないでくれ、ジェイド」
押し当てた彼の身に、呟く。
「側にいさせてくれ――お願いだ」
横たわったまま腕に包まれる。
温もりのある沈黙が、部屋を満たしていた。
押し当てた場所から響く、彼の鼓動にハルシャは耳を澄ましていた。
とくん、とくん。
動きに鼓膜が震える。
目を閉じると、彼の命の音だけが、世界の全てになった。
「ハルシャ」
眠りに引き込まれそうになっていたハルシャは、呼びかけにはっと目を開いた。
問いかけるように首をもたげて、彼を見る。
ジェイ・ゼルは天井を見つめたままだった。
ハルシャは頭を腕に預けて、彼の言葉を待った。
口火を切りながらも、続く言葉をジェイ・ゼルは中々口にしなかった。
何かを考え込んでいることだけが、触れた肌から伝わってくる。
どうしたんだ、ジェイ・ゼルと、問いかけようとした時、
「私と」
と、ようやく言葉の続きを、彼は呟いた。
ジェイ・ゼルが顔を動かして、視線を向ける。
きれいな緑の瞳だった。
心を奪われるほど、美しい深みのある色。
思わず見とれていると、彼が小さく笑った。
頬に指先が触れる。
身の内に力を蓄えるように沈黙してから、彼は口を開いた。
「――結婚してくれないか」
思いもかけない言葉に、脳の理解が追いつかない。
「え」
思わず呟いたハルシャに
「嫌か?」
と、短く言葉が返る。
今ジェイ・ゼルは、何と言ったのだ。
結婚してくれと、そう、言ったのか?
ようやく受け入れた事実に、目がまん丸になる。
「い、嫌じゃない。私は――」
余りの衝撃に、声が震える。
「ジェイ・ゼルが、嫌なのかと思っていた」
帝星では同性婚が認められている。
男同士でも婚姻は可能だったが、知っているはずのジェイ・ゼルは何も言わなかった。だから、彼は制度に縛られるのが嫌なのかと思い込み、問うことすらしなかった。
一緒に暮らせるだけで、自分は十分だった。
彼の負担になりたくないとも、思った。
だから。
見て見ぬふりをしてきた。
「嫌ではないよ、ただ。恐かっただけだ」
静かな言葉が彼の口から呟かれる。
「君の自由を奪うことが」
緑の瞳に自分を映しながら、彼が言葉を続ける。
「未来のない自分との人生を歩ませていいのか、と。婚姻という形で、自分に縛り付けることが――ひどく罪深いことに思えたのだよ」
言葉を切ると、しばらく彼は無言でハルシャを見つめていた。
「けれど」
不意に笑顔になると、彼は言葉を紡いだ。
「ここまで共に歩むうちに、君の人生に責任を持ちたいと思ってしまった」
少し身を動かして、彼がハルシャに体を向ける。
指先が、優しく頬を撫でる。
「法的に婚姻すれば、伴侶としてまさかの時に共同責任を取ることが出来る」
目を細めて、彼が呟く。
「私の遺産も、自動的に君のものになるからね」
ハルシャは、ジェイ・ゼルがラグレンで渡してくれた彼の個人資産に、一切手をつけなかった。
刑を終えた後、そのまま返還していたのだ。
ジェイ・ゼルはしばらく抵抗していたが、ようやく受け入れてくれた。その時に、この家を購入した時の半額を、支払ってくれていた。
自分もこの家に資金を出したいのだと、説明して。
「実質生活は変わらないと思うが――」
言葉を切ると、彼は微笑んだ。
「私は君と、法的な家族になりたいのかもしれないね」
ハルシャはジェイ・ゼルを抱きしめていた。彼は、覆うように身を包んでくれる。
「幸いなことに、ジェイド・ラダンスという戸籍を頂いたからね。一人の人間として、婚姻届けを出せる」
髪に唇が触れる。
「決断したのには、それも大きいかな」
この先も一緒に生きたいと、彼は告げてくれている。
家族として、ずっと。
繋いだ手を離さないと、教えてくれているようだ。
「君が嫌でなければ、結婚してくれないか、ハルシャ」
「い、嫌じゃない」
震える声で、ハルシャは告げた。
「嬉しい」
想いが溢れて言葉が途切れる。
「嬉しいんだ、ジェイド」
押し当てた場所に涙を滴らせるハルシャを、黙ってジェイ・ゼルは腕に包んでいた。
長い沈黙の後、
「ハルシャは私の詩が、好きか」
と、ぽつりと問いかけた。
黙したままハルシャは頭をゆらした。
涙で詰って声が出なかったからだ。
「そうか」
指先で、梳くように髪が撫でられた。
「君が好きというのなら、書き散らした詩も、悪くないのかもしれないね」
彼が呟いた言葉の意味を、ハルシャはそれからしばらくしてから、知る。
リュウジとメリーウェザ先生が保証人となって、婚姻届けを提出した次の日だった。
夕食の席で、一冊の本をハルシャはジェイ・ゼルから手渡された。
作者名は『
珠玉の言葉が積み重ねられた、一冊の詩集だった。
献辞には「最愛の人へ」と、あった。
「君が喜ぶのなら」
ジェイ・ゼルは優しく微笑みながら、呟いた。
「詩集を出すのも、悪くないと思ってね」
本を握りしめたまま、ハルシャは彼に走り寄り、身を抱き締めた。
それがどれだけ勇気が必要なことだったのか、ハルシャだけが知っていた。
緑の瞳に変わる彼の姿と共に。
ただ。
ハルシャだけが――
「ありがとう、ジェイド。最高のプレゼントだ」
二人は寄り添いながら、日々を過ごした。
市場に仲良く買い物に出かける二人が、かつてどのような過酷な人生を歩んできたのか、誰にも感じさせないほど、穏やかに、幸せそうに。
微笑みを交わし、指を絡めて。
紅葉の季節、ことのほか美しくなる湖のほとりの王国で――
共に重ねる時を愛しむように。
(了)