ほしのくさり

余話 ~天からこぼれた物語~

湖のほとりの王国で Ⅰ




はじめに

 ※ジェイ・ゼルとハルシャが帝星で暮らし始めてから二年。紅葉美しいシルガネン湖のほとりでの物語です。(全二話です)





 帝星にある湖の内、シルガネン湖は紅葉の季節が美しいことで知られている。

 ハルシャがジェイ・ゼルと暮らすことを決めた家は、そのシルガネン湖を見下ろす高台にあった。
 人里離れた場所に、ひっそりとたたずむ一戸建て。木々が守る様に周囲を取り巻く白壁の家に住み始めてから、二年が経とうとしていた。
 一年の長期休暇が明けから、ハルシャはシルガネン湖のほとりの家から仕事に通い始めていた。もう、職場から何も考えなくても自然と飛行車を走らせることが出来る。
 ジェイ・ゼルの待つ自宅へと――

 この日もハルシャは、夕暮れが褪せはじめた空の下を帰途についていた。

 紅葉に取り巻かれたシルガネン湖はとても美しかった。
 青い深みのある水の色と、湖の縁まで迫るくれないの葉の色が鮮やかな対比を見せる。
 朝、早起きをして一緒に森の中を軽い散歩をするのが、ハルシャたちの日課になっていた。その日々の中で、季節の移ろいを感じる。
 迎える二度目の紅葉の季節は、とても美しかった。
 目に映しながら、ハルシャは自宅へとひたむきに飛行車を走らせる。
 座席の横には、箱入りのクラヴァッシュ酒の瓶が置かれている。
 ハルシャは唇を軽く噛み締めながら、この瓶を見た時のジェイ・ゼルの表情を心に思い描く。
 ジェイ・ゼルと再会してからもう三年。
 今日は惑星トルディアに居たならば、ジェイ・ゼルと出会ってから十五年目に当たるはずの日だった。



「おかえり、ハルシャ」
 厨房から声が響いた。
 かぐわしい香りが、玄関を入った途端、鼻孔をくすぐる。
 ジェイ・ゼルは、腰から下に深い緑色のエプロンを締めて料理をしていた。
 すんなりと背を伸ばす彼は、それだけで一枚の絵のようだ。
「ただいま、ジェイ・ゼル」
 この季節の帝星の夕方は冷える。ハルシャは着ていた外衣を脱ぎながら、ジェイ・ゼルの元へと歩を進めた。
「美味しそうな匂いだね」
 料理から顔を上げると、近づくハルシャへジェイ・ゼルが静かに微笑みを向ける。
「朝晩冷えるからね。今日はシチューにしてみたよ」
 再び視線を料理に戻し、ゆっくりと鍋をかき混ぜている。

 ハルシャも笑顔になった。
「嬉しい。ジェイ・ゼルのシチューは大好きだ」
 側に佇み、作業の手元を見守るハルシャの頬に、ジェイ・ゼルの温かな指が触れた。
 気付いて上を見ると、彼が微笑みながら顔を寄せていた。
 優しく、唇が触れ合う。
「もう出来るよ。お腹が空いただろう。食事にしようか」
 二年間繰り返されてきた日常なのに、それでもジェイ・ゼルの顔を見つめていると、ハルシャの中に甘く痺れるような感覚が広がる。

 七年の刑期を終えたあと――ジェイ・ゼルは帝星の戸籍を得て別人として過ごしていた。
 彼がかつて所属していた組織『ダイモン』からの報復を、汎銀河帝国警察機構が恐れたからだった。なるべく顔を人に見られないように、存在が目立たないように暮らすことを余儀なくされた。
 そのために、ジェイ・ゼルは自宅でほとんどの時間を過ごしている。
 退屈ではないか、と心配するハルシャに、彼は部屋の中から出ずに暮らすことには慣れているよ、と優しい声で告げて危惧を解いてくれる。
 かつてそれが自分の生活の全てだったから、と。
 だから服役中も苦痛ではなかったと、彼は笑う。

 胸が痛んだ。
 ジェイ・ゼルが渡してくれた過去を綴ったものには、容赦ない生き様が描かれていた。
 磨き抜かれたような端正な言葉で、淡々と綴られた目を覆いたくなるような、過去。
 数行進んでは、涙で文字が見えなくなる。
 少しずつしか読み進められない手記を、それでもハルシャは彼の字を指でなぞりながら、目を通し続けた。
 彼の心に報いる、唯一の方法のような気がしたからだった。
 それでも、ほとんど進んでいない。
 惑星アマンダでどんな風に暮らしていたのか――そこまでしかハルシャはまだ知らなかった。手記に語られていたのは、生命に対する冒涜以外の何ものでもないように、ハルシャは思えた。
 苛烈な生き方を、彼は生まれたときから強いられてきたのだ。


 手を握り合い、朝霧の立ち込める湖畔を散策する時、ジェイ・ゼルは足を止めてよく風景に見入ることがある。
 側で黙って同じ風景を見つめていると、彼は静かに

 美しいね、ハルシャ。

 と、魂からこぼすように呟いた。
 感嘆の言葉の後、にこっと笑いながら眼差しを与えてくれる。

 君と一緒に見ているからかな。

 時折そんな風に言葉を続けてから、再び二人で歩き出す。
 傍らを歩きながら、過酷な日々をジェイ・ゼルが生き抜いてくれたことに、どうしようもない感謝と喜びが湧き起ってくる。
 同じ風景を並んで見つめられることが――
 この上なく幸福だった。

 ジェイ・ゼルは自宅で自分なりの楽しみを見つけて、日々を過ごしているようだ。
 彼は実はピアノが堪能だと知ったリュウジが、引っ越し祝いにと惑星ガイアから一台取り寄せて贈ってくれたのだ。
 電子ではなくハンマー式の古式ゆかしいピアノを、ジェイ・ゼルはとても喜んでいた。
 独りで過ごすときに、手遊びに弾いているようだ。
 夕食の後に、興が乗れば一曲演奏してくれることもある。
 随分弾いていないから腕が落ちているね、と笑いながらも楽しそうに奏でてくれる。
 彼そのもののような、柔らかで繊細な音が、夜のしじまに響く。
 そんな時、なぜか涙が溢れてきそうになってくる。
 こんなに幸福で良いのだろうかと――

 料理も、仕事に出るハルシャのために、ジェイ・ゼルがほとんど担当して作ってくれていた。自分で近くの市場に飛行車で出かけ、様々な食材を購入してくる。
 のどかな田舎の市場なので、惑星トルディアの存在すら知らない人ばかりだ。数回は警戒していたようだが、今ではジェイ・ゼルも気兼ねなく出かけるようになった。
 市場で彼は人気があるようだ。たまに一緒に買い物に出かけると、たくさんの人から気さくに声をかけられ、おまけをしてもらえる。
 ジェイ・ゼルは、不思議に人を魅了する。
 甘い蜜を滴らせる美しい花が蝶や鳥を誘うように、ジェイ・ゼルの存在が皆を惹き付けるらしい。明らかに憧れの眼差しで見つめてくる人がいると、ちりっと、心の底が焼ける様な痛みを覚える。
 ジェイ・ゼルは、そんなハルシャの変化をよく解ってくれているようだ。
 妙に嬉しそうに微笑みながら、心を乱さなくていいよ、私はハルシャのものだからね、と耳元に口を寄せて囁く。
 戸惑う自分の様子が楽しくて仕方がないように、彼はいつも目を細めて自分をみつめてくる。そのために市場に連れてくるのではないかと、抗議したくなるほどだ。

 今日もそうやって彼が市場で購入してきた食材が、夕餉の席を彩っている。
 良い塊肉が手に入ったらしい。ビーフシチューはジェイ・ゼルの得意料理だ。前の日からクラヴァッシュ酒に漬け込んだ肉で、じっくりと煮込んで作る。小玉ねぎが丸ごと入っていて、びっくりするほどに美味しい。隠し味になんと、チョコレートが仕込まれている。初めて出してくれた時に、ハルシャが大喜びして食べてから、食卓の定番メニューとなった。
 お皿に盛り付けた料理を運びながら、その香りにハルシャのお腹がぐーと鳴った。
 くすっと、厨房に立ったままジェイ・ゼルが笑う。
「ハルシャは、お腹も素直だね」
 愛しげに呟かれると、反論する気にもならない。
 濃い茶色の中に、塊の牛肉が存在感を放つ。円を描いて白いクリームがかけてあり、色合いがとてもきれいだった。
「ジェイ・ゼルは本当に料理が上手だから、待ちきれなくなる」
 想いをそのまま伝えると、ジェイ・ゼルの笑みが深まった。
「君が喜んでくれるなら、これ以上の幸せはない」
 さらりと呟いてから、ジェイ・ゼルは盛り付けたサラダを両手に持って動いた。
「それ以上お腹がアリアを歌わないうちに、食事にしようか」


 向かい合って食事をするのも二年目だ。
 大きな無垢材の一枚板の机を、ハルシャは食卓のテーブルとして購入した。
 自然なものをジェイ・ゼルが喜ぶような気がしたからだ。
 生活の中で、飴色のまろみを帯び始めた机で、それぞれの位置に座を占める。
 端正に座るジェイ・ゼルを前に、
「きょ、今日は、用意したものがあるんだ」
 と、やや声を上ずらせながらハルシャは告げる。大切に持ち帰った箱を、ジェイ・ゼルに見えるように机の上に置いた。
「ジェイ・ゼルが、気に入ってくれると嬉しいのだが」
 呟いて、彼の顔を見守る。

 あの時、どんな銘柄をジェイ・ゼルが用意してくれたのか、関心もなかった自分ははっきりと見ていなかった。
 けれど。
 上質なクラヴァッシュ酒という言葉だけは耳に残っていた。
 必死に記憶の中の映像を辿り、このラベルかなというものを選んで、随分前から取り寄せるように手配をしていたのだ。
 今日、ようやく届いた。
 リュウジに頼めばもっと簡単に手に入っただろうが、これだけは自分一人の力でしたかったのだ。

 箱を見たジェイ・ゼルの眉がひゅっと片方上がった。
 彼はしばらく無言だった。
 箱を見つめていた目が、静かに細められた。
「よく、憶えていたねハルシャ」
 呟いた後、ジェイ・ゼルが優しく微笑んだ。
「十年前――私が出会って五年を祝うために用意したクラヴァッシュ酒と、同じだね」

 ぱあっと、顔が明るくほころんだ。
 嬉しかった。
 銘柄が間違えていなかったことと。
 ジェイ・ゼルがあの時のことを忘れていなかったことと。
 彼が喜んでくれていることと。
 この瞬間、ジェイ・ゼルが目の前に座っていてくれていることと――
 全てがただ、嬉しかった。

「惑星トルディアにいたら」
 何故だろう。
 目頭が熱い。
「今日で出会って十五年だよ、ジェイ・ゼル」
 優しい灰色の瞳を見つめながら、ハルシャは言葉を呟いていた。
「あの時は、せっかく用意してくれたものを、断ってすまなかった。私を喜ばそうと準備してくれていたのに」
 微笑んだまま、ジェイ・ゼルが軽く首を振った。
「こちらが勝手にしただけだよ、気にしてはいけない」
 それでもただ、詫びたかった。
 今も昔も、同じ愛情を注いでくれていたのに、気付くことが出来なかった自分の幼さを。
「このクラヴァッシュ酒を一緒に飲みたいんだ、ジェイ・ゼル。あなたと」

 ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
「なら」
 瞳の奥に微かな炎を揺らめかせながら、彼は呟いた。
「ハルシャに飲ませてもらおうかな」
 どきっと、心臓が躍る。
 にこっと無邪気を装って彼は笑う。
「膝の上で――口移しで」

 かあっと顔を赤らめるハルシャをしばらく見つめてから、彼は笑い声を上げた。
「冗談だよ、ハルシャ」
 すっと立ち上がると、机を回って座るハルシャの元へ歩を進めてくる。慣れた動作で頬に手を触れると、身を屈めたジェイ・ゼルの唇が柔らかく触れた。
 挨拶のように軽く探ってから、温もりが離れる。
「食事がまだだからね、これで我慢しておくよ」
 頬を赤らめるハルシャをごく近いところで見つめてから、手が引かれる。

 ドキドキと高鳴る心臓のハルシャを放置し、ジェイ・ゼルはそのまま用意したクラヴァッシュ酒の箱を持ち、丁寧に開いた。
 彼の動作を見守りながら、
「ヴィンテージらしい」
 と、一応、ハルシャはつけくわえる。言わなくてもジェイ・ゼルは知っていると思うが、伝えたかったのだ。
「この年のは特にいいね」
 柔らかい笑みが浮かぶ。
「嬉しいよ、ハルシャ」

 戸棚から取り出したとっておきのグラスに、ジェイ・ゼルはハルシャのプレゼントを丁寧に注いだ。
 乾杯をしてから、出会ってから十五年を祝う夕食を、和やかにとる。
 ジェイ・ゼルはクラヴァッシュ酒に惜しみない賞賛を注いだ。
「美味しいクラヴァッシュ酒だね。保存状態も最高で、良いものを手に入れようと努力してくれたんだね。ありがとう、ハルシャ」
 くすぐったくなるほどの賛辞に、頬が赤くなる。

 ジェイ・ゼルのビーフシチューとクラヴァッシュ酒は良く合った。
 自然と笑顔になる。
 ハルシャが嬉しそうに食べる姿をしばらく眺めてから、
「今日、リュウジとサーシャが来てくれてね」
 と、静かな声で、ジェイ・ゼルが切り出した。
「そうなのか?」
 二人から今日の来訪のことは聞いていなかった。
「この家からの紅葉の眺めがいいと、喜んでくれていたよ」
 優しい声で彼が付け加える。
「急なことだったので、ハルシャに会えないのを残念がっていた。よろしくと伝言を残して帰っていったよ」
 呟いて、ジェイ・ゼルがグラスを手にし、静かに乾す。

 置かれた彼のグラスに、ハルシャは新しいクラヴァッシュ酒を注いだ。
「ジェイ・ゼルの顔を見に来たのか?」
 瓶を置きながらハルシャは問いかける。
 リュウジはジェイ・ゼルの健康状態や自分たちの生活に不便がないかを、とても気にかけてくれていた。
 惑星トルディアに居た時と変わらず、リュウジは優しく自分たちを支えてくれる。

 ジェイ・ゼルは口角を上げてふと視線を落とす。
「いや」
 言葉を切ると、彼は微かに目を細めた。
「以前私が手遊てすさびに書いた詩を、サーシャがお世話になっている出版社の方に見せたらしくてね」

 睫毛を伏せるジェイ・ゼルの顔を、ハルシャは見守った。
 ジェイ・ゼルは、服役中に許された自由の中で、過去を綴り、詩も書いていた。
 その詩を、サーシャが先日甥と姪を二人に見せに来てくれた時、偶然目にしてとても気に入ったらしい。ぜひ一枚貸してくれと彼女は頼み込んだのだ。
 はじめジェイ・ゼルは断っていたが、懇願に負けて一枚だけ渡していた。
 そのことを言っているのだろうか。
「どうやら、気に入ってもらえたようだ。それで――他の詩も見せて欲しいと言っていると、伝えに来てくれたんだ」
 ゆっくりとジェイ・ゼルの視線が上がる。
「サーシャとリュウジは詩を出版してはどうかと、考えてくれているみたいでね」

「素晴らしいじゃないか、ジェイ・ゼル!」
 思わずハルシャは声を放っていた。
「良いことだと思う。ぜひ、そうしてほしい」

 けれど、ジェイ・ゼルは嬉しそうではなかった。
 沈黙したままハルシャを見つめている。

「私は」
 ぽつりと、
「君だけで、十分なのだけれどね」

 灰色の瞳が自分を見つめている。

「私の全てを、君が知ってくれているだけで十分だから――残念ながら、詩を世に出すつもりはないと、答えておいた」

 食事の手を止めて、ハルシャは無言でジェイ・ゼルと視線を絡ませ合った。
 瞳の奥を見つめる。
 彼はふっと優しく笑った。

「サーシャはとても、残念がっていたけどね」
 呟くと彼はクラヴァッシュ酒を口に含み、
「ハルシャが注いでくれたのは、格別美味しいよ」
 と柔らかい発音で賞賛をおくる。
「私は――ジェイ・ゼルの詩が好きだ」
 瞳を見つめたまま、ハルシャは呟いていた。
「優しく、抱き締められているような気持ちになる。ジェイ・ゼルの詩を目にした人たちも、そう感じると思う。出版しないのはもったいない」

 くすっとジェイ・ゼルが笑う。

「詩的な言葉を使ってみようと思ったのかな? ハルシャ。なかなか上手だったよ」
 空いたグラスに、今度は自分でジェイ・ゼルはクラヴァッシュ酒を注いだ。
「あれは君が喜ぶかもしれないと思って、書いただけのものだからね」
 微笑みが深まった。
「本当は君以外には、見せるつもりはなかった」
 軽い驚きが襲う。
「ジェイ・ゼルは、私のために書いてくれたのか?」
 グラスを挙げたジェイ・ゼルは、
「ハルシャは詩が好きだからね」
 と柔らかく呟く。
「偉大な祖先の血を継いでいるからかな」

 どこまで本気か冗談か、解らないような口調で彼は言う。
 意外だった。
 こんなのもあるよ、といくつか見せてくれた詩は、優しさにあふれたものだった。
 朝霧におぼろに浮かぶ木々を見て、美しいと呟くジェイ・ゼルの横顔がふわりと心に浮かんでくるような、繊細で柔らかな言葉で綴られた詩。
 それが、自分のためだなど、ハルシャは思ったこともなかった。

「私は」
 グラスを置きながら静かにジェイ・ゼルが呟いた。
「君が喜んでくれれば、それでいい」

 灰色の瞳が不思議な強さを秘めて、自分を見つめている。
 言葉を失くして、ただ、眼差しを交わし合う。

 ジェイ・ゼルは、触れられたくないものを、心の奥に秘めている。
 詩に昇華しても、言葉の中に、見せたくない自分がこもることを恐れているのだ。
 彼の孤独と繊細な心を、感じる。
 翡翠の美しい瞳の中に隠された、壊れやすい、優しい魂。
 自分だけに見せてくれる、彼の本当の姿。
 それを他人には知られたくないと、彼は言っているのだ。
 想いが、痛かった。

「つまらない話をしたね」
 黙り込むハルシャに笑みを与えると、ジェイ・ゼルはスプーンを手に取った。
「料理が冷めてしまうね。食事を続けようか」

 ジェイ・ゼルは話題を、サーシャが新しく書いた小説に変えた。
 『双翼の彼方』という冒険ファンタジーだ。
 少年の右手と、少女の左手を合わせると、宝の地図が現れるという双子の兄と妹の話だった。二人は生後間もなく引き離され、別々の人に育てられた。だが、二人の手の平を合わせると昔の宇宙海賊が残した地図が現れることを知った者たちに狙われ、理由も解らずに逃げているうちに、二人は偶然に巡り合う――
 という、波乱万丈な物語だった。
 まだ上巻が出ただけだが大人気で、早く下巻が出ないかと、市場でも噂だとジェイ・ゼルが目を細めて言う。
「これは、あれだね」
 穏やかな笑みを浮かべて彼は呟く。
「リンダ・セラストンから多大な影響を受けたのだろうね。やけに宇宙海賊についての描写が細やかだから」
「リンダ・セラストン? どうして彼女が?」
 問い返したハルシャに、ひゅっとジェイ・ゼルは眉を上げた。
「おや。ハルシャは知らなかったのかな?」
 何をだろう。
 ジェイ・ゼルは優雅にパンを千切りながら微笑んだ。
「リンダ・セラストンは、元宇宙海賊だよ」
 驚きに目が丸くなる。
「リュウジが詳しいよ。私も彼から教えてもらったのだけれどね」

 知らなかった。
 メリーウェザ先生から後事を託されたリンダ・セラストンは、優秀な医師だった。しかも、言葉は悪いが、メリーウェザ先生より商才があった。
 彼女は医療院をさらに大きくし、たくさんの患者を診られるように、医師の数を増やしていった。今では立派な医療院が建ち、子どもたちの健康増進にも貢献しているようだ。
 その彼女が、元宇宙海賊。
「安心してくれ、ハルシャ。その前は医学生だったそうだ。腕は確かだよ」
「サーシャは知っているのか?」
「らしいね。メリーウェザ医師とそんな話をしていたよ」
 くすっと彼は笑う。
「もしかしたらその時、新しい小説の構想を練っていたのかな?」
 意外だ。

 リンダの話になったことで、心がラグレンへ戻っていく。
 ジェイ・ゼルを見つめる。
 最初に出逢った時、彼は地獄からの使者のように思えた。
 今――
 穏やかな暮らしの中で、彼の表情はとても柔らかだった。
 けれど、彼は今、本当に幸せなのだろうか。
 敬愛していた頭領ケファルの元を離れ、たくさんいた部下を手放して。
 もう彼は双子の妹に逢うことは出来ない。彼と同じ、エメラルド色に瞳を変える、大切な美しい人に。

「どうした、ハルシャ」
 穏やかな問いかけが、ジェイ・ゼルの口からもれる。
「何を難しい顔をしているのかな?」
 彼はすぐに、自分の心の中を見抜いてくる。
 誤魔化すことは簡単だったが、心の内を素直にハルシャは打ち明けた。
「ジェイ・ゼルは――」
 視線を上げて、自分を見守る灰色の瞳を見つめる。
「幸せか?」

 唐突な問いかけに、彼は小首を傾げた。
「ハルシャには、私が幸せそうに見えないのかな?」
 問いに問いで返すのが、彼は得意だった。
 一瞬口ごもってから、
「ジェイ・ゼルは、隠れて暮らさなくてはならくなった――前はたくさんの部下を率いていたのに。それに、実の妹にも逢えなくなってしまった。それが――」

 ずっと心の中に秘めていたことを、ハルシャは口にしていた。
 仕方がないこととはいえ、リュウジはマスコミの注目を受ける。ジェイ・ゼルの姿がどこかで報道されれば、厄介なことになると、リュウジは知っていた。
 だから、サーシャの出産祝いなどは、いつも自分とジェイ・ゼルだけを招き、内輪の祝いをしてくれる。サーシャの結婚式も、カメラを入れない神聖な式には参加してもらったが、あとの披露宴にはジェイ・ゼルは欠席した。あまりにもマスコミが多いからだった。
 一生、そうやって隠れて生きていかなくてはならないのは――
 自分のせいだ。
 両親の不遇を世間に知らしめるために、ジェイ・ゼルは泥をかぶってくれたのだ。
 そんな風にハルシャは思ってしまう。

「それが、ハルシャは辛いのだね」
 優しい声が、前から響いた。
 灰色の瞳に見つめられて、不覚にも、涙が滲んだ。
 ラグレンで、ジェイ・ゼルはいつもどこでも堂々としていた。
 その彼が、隠れるようにして生きているのが、自分は辛かったのだ。
「すまない、ジェイ・ゼル。十五年の祝いの日なのに、こんなことを言い出して」
 涙を隠すように下を向いて、目を擦る。

 すっと空気が動いて、静かにジェイ・ゼルが近づいてきていた。
 椅子に座ったハルシャを、彼の腕が柔らかく包み込む。

「前にも言ったけれどね」
 身を屈めて、ジェイ・ゼルが呟く。唇が優しく髪に触れた。
 そのまま温かな息をこぼしながら彼が呟く。
「君と共に生きることが、私の幸せだよ、ハルシャ」
 頬が髪に押し当てられる。
「夜眠る時と、朝目覚める時と――君の傍らに居られることが、私の幸せなのだよ。他のことは何もいらない。
 ハルシャ。こうしていることが」
 愛しげな言葉が滴る。
「無上の幸福だよ」

 言葉にこもる真実が、胸を震わせた。
 顔を上げると、少し身を離したジェイ・ゼルの笑顔がすぐそばにあった。
「この湖のほとりの家が、私の王国だ。そこに君と暮らしていることが、この上ない喜びなんだよ、ハルシャ。
 それ以上の幸福など、どこにもない」
 うっとりとするほど美しく、ジェイ・ゼルが笑みを深める。
「過去の私と比べないでおくれ」

 ラグレンでジェイ・ゼルは、厳しい表情をいつもたたえていた。
 冷たい隙のない眼差しで、辺りを射るように見つめていた。
 けれど、今はまろやかな温もりを帯びた瞳で、自分へ眼差しを向けている。
 ラグレンにいるとき、ジェイ・ゼルは、『ダイモン』の幹部として非道なことを為さざるを得なかった。本当は――借金を取り立てることは彼にとって、とても苦しい仕事だったのだろうか。部下を率い、莫大な利益を上げていた時よりも、今の方が心から寛いでいるように見える。

「私は幸せだよ」
 呟きと共に、見上げるハルシャの唇が優しくジェイ・ゼルに覆われていた。
 ゆっくりと、中を味わうように彼が舌を絡めてくる。
 小さくハルシャは呻きを漏らした。
 ぐっと、ジェイ・ゼルの身に力がこもり、髪に触れていた手が背に廻された。
 引き寄せられる。
 誘われるままに、ハルシャは彼の首に腕を絡めた。
 深く身を合わせて、互いを味わう。
 クラヴァッシュ酒の香りがした。
 呼吸が出来ない。酔いが急速に回って行くような気がする。
 深く合わせた口から、ハルシャは小さな喘ぎをあげる。
 しばらくそうしてから、ジェイ・ゼルがゆっくりと身を離した。

「君と出会って十五年だね、ハルシャ」
 吐息のような言葉が、先ほどまで深く探り合っていた口から、こぼれ落ちる。
「私を知らない時間と、私を知ってからの時間が、同じになったね」

 瞳を揺らしながら、ハルシャはジェイ・ゼルを見上げた。
 彼は背中に廻した手を解くと、髪を優しく撫でながら微笑んだ。

「ハルシャは、幸せか?」

 灰色の瞳が痛みを秘めながら、自分を見つめている。
 両親の死に関わった自分と暮らすことが、君の本当の幸せなのかと、その瞳は真摯に問いかけていた。
 きっと――彼は自分の中に、ずっと疑問を抱き続けていたのだろう。
 自分はハルシャを幸せにしているのか? と。
 先ほどの自分と同じように、今、これまで言葉に出来なかった想いを、口にしてくれているような気がした。

「幸せだよ、ジェイ・ゼル」
 何の飾りもない言葉を、ハルシャは口にしていた。
「ジェイ・ゼルが思うよりもずっと、ずっと――あなたの側で、私は幸せだ」
 降り注ぐ惑星ガイアの甘い雨のように、ジェイ・ゼルの愛が身を潤す。
 身を浸す喜びは、たとえようもなかった。
「家にジェイ・ゼルが待っていてくれる。料理を一緒に食べて、同じ風景を眺めて、たわいないことを話して……」
 言葉がつまる。
 愛しさに、胸が締め付けられる。
「それだけで生きていける。もう、あなたと離れなくていいのだと思うだけで……」
 腕を伸ばして、彼を再び抱き締めた。
「こんなに幸福でいいのかと思うぐらいに――私は幸せだよ、ジェイド」

 一瞬身を強張らせてから、彼は椅子に座ったハルシャを促すように立たせる。
 そのまま向き合う状態で腕に包み、深く唇を合わせた。

 強く、激しくジェイ・ゼルがハルシャを求めている。
 大きな手の平が、背中をゆっくりと往復していく。それだけで、快楽を教え込まれた身体が否応なしに内側から蕩けていった。
 荒い息が、思わず口から漏れた。

 絡めとるような熱い唇の動きに、次第に思考が鈍り出した時、
「君と愛し合いたい」
 わずかに離した唇で、ジェイ・ゼルが呟いた。
「――今すぐに」

 渇望のように、懇願のように、言葉が滴り落ちる。

 熱を帯びた言葉に、脳が痺れるような感覚を抱きながら
「いいよ、ジェイド」
 と、触れる息でハルシャは返した。







Page Top