ほしのくさり

余話 ~天からこぼれた物語~

One Day Ⅰ
-ジェイ・ゼルのある一日-




はじめに

※前話『ハルシャの隠しごと』からしばらく経った、初秋の帝星でのお話になります。
※シルガネン湖のほとりの家で、普段ジェイ・ゼルはどんな一日を過ごしているか、という物語です。ジェイ・ゼル視点です(全二話です)





 手首に着けている装置が、微かに震えて、目覚める時刻を告げる。
 ジェイ・ゼルは、わずかな刺激に目を開いた。

 朝だ。

 金属の輪に触れて、振動を止める。
 そうしてから、ジェイ・ゼルはベッドから窓へと目を転じた。
 夜明けが、シルガネン湖の湖面を彩り始めている。
 今日の天気は良さそうだ。
 そう判断をつけると、今日一日、やるべきことをさっと頭の中でさらう。

 窓から視線を戻して、傍らで安らかな寝息を立てるハルシャへ顔を向けた。
 昨夜。
 深く愛し合ったままに、裸体で彼は眠りに落ちていた。
 素肌が触れ合っている。
 安心しきったように身を預けて、ハルシャは眠っていた。
 無邪気な寝顔を見つめる。

 かつて。
 眠る前と、目覚める時と――
 ハルシャが側に居てくれることを、夢に描いていた。

 想いは叶ったのだと、心の中に呟く。

 ハルシャの熱い寝息が、肌に触れる。
 離れて寝入っても、ハルシャはいつのまにか自分に身を寄せている。
 無意識にその体を腕に包んで、二人で寄り添いながら眠るのが、日常だった。

 暑い時も、寒い時も。
 変らずに身を寄せ合う。
 二人で一つの生命体のように、心と身を重ね合わせる。

 昔。
 こんな話を聞いたことがある。
 太古、人は二人で一組の生き物だった。背中がくっついていて、どこに行くのにも一緒だった。それは、完全でこの上なく幸福な姿だったのだと。
 けれどあまりに仲の良いことを羨んだ神々が雷で間を焼き、二人を引き裂いてしまったのだ。
 人はそれから長い放浪の旅を余儀なくされたのだという。
 かつて背中を密着していた、失われた半身を求めるために。

 自分にとって唯一無二の半身は、ハルシャなのだろう。
 だからこそ、こんなに切ないほどに、彼が愛しい。
 初めて出会った時――階段を走り降りる彼の姿を見て、雷に打たれたようになった。
 その瞬間から、ハルシャ・ヴィンドースは自分にとって、何にも代えがたい存在となった。
 あの時は、このような安らかな時間を彼と過ごすことが出来るなど、思ってもみなかった。地獄の使者のように彼は嫌悪の滲んだ眼で、見つめていたというのに。
 布団から、肩が出ていることに気付く。
 冷えてはいないだろうか。
 気になって、ジェイ・ゼルはたなごころで肩先を包む。
 やはり、冷たかった。
 布団をつかんで、そっと身を覆う。

 寝顔に視線を落とす。

 初めて触れた時は、硬い未熟な果実のようだった、形の良い唇を見つめる。
 そこからこぼれ落ちる、優しさにあふれた本当の自分の名前。

 ジェイド。

 この夜も、絶頂を迎えながら、ハルシャは幾度も自分の名を呼んだ。
 ハルシャは、自分の全てを解き放ってくれる。
 彼の前では自分を偽る必要が無い。
 自己と向き合って生きていくことの喜びを、彼は自分に与えてくれたのだ。

 部屋に差し込む柔らかい光が、ハルシャの横顔を浮かび上がらせている。
 昨夜は眠りについた彼の身を、簡単に拭うことしか出来ていない。
 仕事に行く前に、シャワーを浴びた方がいいかもしれない。
 身がさっぱりするだろう。
 少し早めにハルシャを起こしてあげよう。

 考えを巡らせながら、そっと頬に触れた。
 ほんのりとした温もりを指先に感じる。
 彼が生きていることに、これほどまでに胸が震える。

 愛しい。

 と心に呟きながら、顔を寄せて優しく髪に唇を触れる。
 ハルシャは深い眠りの中にあって、目覚める気配はなかった。
 微笑みながら顔を離すと、ジェイ・ゼルはゆっくりと動いた。
 ハルシャを起こさないようにそっとベッドを抜け出す。
 自分の動きに、彼が目覚めなかったかを振り向いて確認する。
 彼の唇からは、すーっ、すーっと規則的な寝息がもれていた。
 手を伸ばしてハルシャの髪を柔らかく撫でてから、そのままクローゼットへ向かう。
 刑を終えて、ハルシャが迎えに来てくれた後、その足で惑星ガイアへ向かいしばらく時を過ごした。
 その折からジェイ・ゼルは、黒以外の服を着ることにしていた。
 今日は白の上に、下はカーキのボトムズを合わせる。
 服をまとい、室内履きをひっかけてから、寝室を抜ける。
 居間を横切り、厨房へと向かった。
 朝の空気は冷えていた。
 ジェイ・ゼルが動くと自動で照明がつく。
 ハルシャの選んでくれた家は、とても使い勝手が良かった。

 朝食の準備をしながら、ふと、ジェイ・ゼルは初めてこの家に足を踏み入れた時のことを思い出していた。
 小さく、笑いが口の端にのぼる。

 これから暮らす家だ、ジェイ・ゼル。

 扉を開けながら、ハルシャはひどく緊張していた。
 自分が気に入るだろうかと、とても心配していたようだ。
 ラグレンからの荷物が整えて置かれた室内を見て、心が震えた。
 どれだけ自分のことを思ってくれているのか、ハルシャの心が伝わってくる。
 黙って彼を腕に包み、無言で立ち尽くす。
 しばらく言葉が出なかった。

 とても素晴らしい家だね。
 ここで君と暮らせることが、とても嬉しいよ。

 やっと絞り出した言葉に、ハルシャの身が細かく震える。
 押し当てた場所ににじむ、目からこぼれたハルシャの温かな液体に、抑えようもなく愛しさが溢れる。
 ハルシャの想いがつまった場所だった。
 ここで彼と時間を重ねられることが、例えようもなく幸福に思えた。
 それは、今もかわらない。
 思えば、自分はずっと旅の中に居たような気がする。
 住む家はあっても、それは寝起きをするための場所であって、故郷ではなかった。暮らしてはいても、いつ手放しても構わない場所。生活を営むためだけの空間。
 仮の宿のようにも思えていた。
 けれど。
 窓からシルガネン湖を見渡せるここは――
 自分が帰るべき場所だった。
「我が家」と、呼べるものをジェイ・ゼルは生まれて初めて手にしたのだと、改めて気付く。
 愛しい人と人生を積み重ねていく、かけがえのない家。
 その安らぎと幸せを、ハルシャが教えてくれた。
 夜眠る時と、朝目覚める時と。
 大切な人の温もりが傍らにあることを――幸せと呼ぶのだと静かに思う。

 ハルシャは朝からしっかり食事が出来るタイプだった。
 パンとコーヒーと、サラダにベーコンエッグ。寒い時はスープも入れるのが、毎日の朝食のメニューになっている。
 新鮮な野菜をサラダにしながら、コーヒー用の湯を沸かす。
 コーヒーはいくらでも全自動で出してくれる装置があったが、ジェイ・ゼルは自分の手で淹《い》れることにこだわっていた。
 サラダの用意が出来た段階で、ジェイ・ゼルはハルシャを起こしに、寝室へと向かった。
 彼は大人しく布団にくるまって、眠り続けていた。
 あまりにもあどけない寝顔なので、いつも起こすことにためらいが生まれる。
 心ゆくまで眠らせてあげたいと、つい思ってしまうのだ。
「ハルシャ」
 呼びかけながら、肩に触れてかすかに揺する。
「もう起きる時間だよ」

「んんっ」
 見えない天使と争っているように、まどろみから覚めようと、ハルシャが身をよじる。
「昨日はそのまま寝てしまったからね」
 ジェイ・ゼルは懸命に目覚めようとするハルシャを見つめながら声をかける。
「シャワーを浴びておいで。そうしたら目も覚めるし、身もさっぱりする」
 ジェイ・ゼルの言葉に、ハルシャは無意識のように頷いている。
「さあ、起きようか」
 ハルシャの両手をつかんで、上半身を無理やりに引き起こす。
 彼は素直に手を引かれて体を立てた。
「おはよう、ハルシャ」
 声をかけると、ごしごしと目を擦りながら、ハルシャはジェイ・ゼルへ視線を向けた。
「おはよう、ジェイ・ゼル」
 寝ぼけた仕草があまりにも愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。
「食事の準備がもうすぐ出来るよ。さあ、ハルシャ。シャワーを浴びておいで」


 浴室までハルシャを送り届けてから、ジェイ・ゼルは朝食の準備に戻った。
 焼き上げたベーコンエッグを皿に盛り、サラダと一緒に食卓に並べる。
 沸騰した湯を止め、コーヒーを淹れているところへ、ハルシャが湯上りの匂いをさせながら、食堂へとやってきた。
「良い香りだ、ジェイ・ゼル。朝食の準備をありがとう」
 シャワーを浴びて、すっきりと目が覚めたらしい。
 いつもの口調でハルシャが語りかける。
「いいタイミングだ、ハルシャ。もうすぐコーヒーが入るよ」
 彼は嬉しそうに自分の側に寄ってきた。
 髪がしっとりとしている。
 水分を含んでいるせいか、いつもよりも赤みが濃く見える。
 洗いたての香りをさせて近づくハルシャへ、笑顔を向ける。
「さっぱりした顔になったね」
 ハルシャがにこっと笑顔を返す。
「朝からシャワーを浴びるなど、ラグレンなら信じられないほどの贅沢だ」
 屈託なく告げられた言葉に、ジェイ・ゼルは思わず眉を上げた。

 最初の頃は、そう言う理由でなかなかハルシャは朝から風呂に入ろうとしなかった。
 勿体ないと言い張って聞かなかったのだ。
 だが、慈しんだ後、風呂に入る間もなくいつもハルシャは意識を落としてしまう。
 眠り込んだまま朝を迎えてしまうのがほとんどだった。
 そのままでは仕事場で奇異な目で見られると説得して、ようやく朝にシャワーを浴びる習慣を身に着けさせたのだった。

 やりとりを思い出して、ジェイ・ゼルは苦笑いを浮かべた。
「ハルシャも、帝星風の生活習慣に馴染んだということだね」
 ちょっと、照れたようにハルシャが笑う。
 はにかんだ顔を見せられると、内側から熱が上がってくるのが止められない。
 注いでいたケトルを横に置くと、ジェイ・ゼルは手を差し伸べて、ハルシャの頬に触れた。ふっとこちらへ向いたハルシャの唇を、静かに覆う。
 彼はちょっと驚いていたが、優しく触れ合わせると、素直に応じてくれた。
 触れ合いで何とか熱を鎮めると、ジェイ・ゼルは唇を離した。
「コーヒーが入ったよ、ハルシャ。食事にしようか」


 *


 今日の予定を話しながら朝食を終え、ジェイ・ゼルはハルシャを職場へと送り出した。
 彼の飛行車が見えなくなるまで、玄関で見送る。
 森の木々に飛行車のテールランプが消えると、ふっと胸の中に寂寥感が広がる。
 十時間後には、またハルシャは戻ってくると解っている。
 だが、自分の中に仕込まれた惑星アマンダのプログラムが、別れを忌避するように命じてくる。
 相手を自分に縛り付け、傍らから離さないように、自分たち『愛玩人形ラヴリー・ドール』は、相手との距離が開くと、精神が不安定になるように作られている。
 側に居て欲しいと、懇願するように仕組まれているのだ。
 刑務所で過ごした七年間、ハルシャの涙を吸った服を見つめて、ジェイ・ゼルは自己の精神の崩壊に耐えた。
 ハルシャの手紙も支えだった。
 彼に返信することは許されなかったが、身は引き裂かれていても、心は離れていないと信じ切ることが出来た。
 あの日々に比べれば、必ず帰ってくると解っているこの別離は、なんら苦痛ではない。
 いつも見送りながら、ジェイ・ゼルはそう、自分に言い聞かせていた。


 飛行車が消えた後をしばらく見つめてから、ジェイ・ゼルは踵を返して部屋に戻った。
 朝食の後片付けを終えた後は、寝室を整える。
 深く愛し合ったために、濡れたシーツを取り替え、部屋の空気を入れ換えた。
 窓を開けると、シルガネン湖が目に飛び込んでくる。
 湖水がきらめいていた。
 作業の手を止めて、ジェイ・ゼルはしばらく湖面の様子を見つめていた。

 爽やかな風が、室内を吹き抜ける。
 湖畔の木々が、紅に染まり始めている。もうすぐ、辺り一面が紅葉に包まれるだろう。

 瞬きを一つしてから、ジェイ・ゼルは窓を開けたまま、手に取り替えたシーツを持って、洗濯へ向かった。
 自分の肌の関係で、使っているものはほとんどが、天然繊維だった。
 そのため、ジェイ・ゼルは特別に洗濯システムを購入し、家でシルク素材も洗えるようにしている。ラグレンに居た頃は、全ての洗濯を業者に委託していたが、それに匹敵するほどの高性能の洗濯システムだった。
 中に素材を入れると、自動で判別して最適の方法で洗い、乾かすところまでしてくれる。随分場所を取るが、幸いこの家は部屋数が多かったので、ジェイ・ゼルは一室を洗濯専門の部屋にしていた。
 部屋に入り、ハルシャが出していたパジャマも含めて洗いをかける。
 指定をしておけば、午後までには乾燥までしてくれる。
 洗濯物を放り込み、機械を動かしてからジェイ・ゼルは日課に移った。


 ハルシャは、窓からシルガネン湖が見渡せる一番良い部屋を、ジェイ・ゼルの私室にしてくれていた。
 かつて、画家がアトリエにしていた場所だ。
 天井から床までが窓になっていて、湖が一望できる。
 ジェイ・ゼルはここに、作業用の机と、トレーニング用の器具を持ち込んでいた。
 フィジカルトレーニングは、服役中でも欠かしたことがない。
 肉体をコントロールするためにも、トレーニングはどうしても必要だった。
 惑星アマンダで、自分に最適の訓練を教え込まれている。
 ルーティンに従って、器具を使いながらジェイ・ゼルは黙々とトレーニングをこなしていく。
 一日怠ると、取り戻すのに三日かかる。
 自分を追い込み、訓練を積み重ねることで、不思議なことに心が安定する。
 二時間かけてトレーニングを終える頃には、全身から汗が噴き出していた。
 タオルでぬぐい、失われた水分を補給する。
 湖へ視線を向けながら、ふっと意識が漂う。

 今、ハルシャは何をしているだろう、と。

 シャワーを浴びて汗を流してから、窓を開けて空気を入れ換えていた寝室で、ベッドメイクをする。
 シーツを替え、枕を整え、上掛けをかける。
 床の掃除は、自走する清掃機器に任せてあった。こまめに走り回り、床の細かなゴミまで拾っていく。
 ジェイ・ゼルもハルシャも、あまり物を必要としない性格だった。
 そのために、部屋の中のものは驚くほど少ない。
 それでも日々の生活で乱れるものを、あるべき位置に戻していく。

 各部屋の掃除をしているうちに、昼になっていた。
 ジェイ・ゼルは夕食の残り物などで、簡単に食事をする。
 午後からは、市場へ赴き食材を買い出しするつもりだった。
 保冷庫の中をのぞき、必要なものをリストアップする。
 準備を終えると、ジェイ・ゼルは家を出た。
 玄関に鍵をかけて、自分用の飛行車へ向かう。真っ赤な車体が車庫の中で自分を待っていた。

 ジェイ・ゼルは、この色が好きなのか? 

 自分がこの車を購入する時に、驚いたように問いかけていたハルシャの言葉を思い出す。
 くすっと、小さく笑いがでる。
 ハルシャは理由を知りたがっていたようだが、ジェイ・ゼルはつい、はぐらかしてしまった。

 君の陽に透ける髪の色をはじめて見た時から――
 赤は自分にとって特別な色になった。

 など――ハルシャに臆面もなく告げられるはずもなかった。

 くすくすと、思い出にジェイ・ゼルは笑う。
 無自覚に鋭い時があるので、ハルシャは油断ならない。
 いつも彼は――自分を飽きさせない。

 街中に出るので、帽子をかぶりジェイ・ゼルは市場へ向かった。
 市場は賑わっていた。
 馴染みのメリガンさんの露店で、望む食材を手に入れる。
 今日は秋の味覚のキノコが売られていた。メリガンさんと話をしながら、夕食はキノコをメインにしたパスタにしようと決める。
 ハルシャは好き嫌いがなく、何でも美味しいとよく食べてくれる。
 その中でもキノコは好きな食材だった。
 食事をするときの彼の幸せそうな笑顔が、ふと脳裏をよぎる。
 無意識のうちに微笑んでいたらしい。

「お連れさんは、キノコが好きなのかい?」
 以前、ハルシャを連れてきた時に彼を紹介したことを、メリガンさんはしっかりと覚えていたようだ。
 不意に問いかけられた。
「喜ぶ顔がみたいって、顔をしているね」
 籠から紙袋にキノコを入れてくれながら、彼女は優しく微笑んだ。
「こんなに大切にしてもらっているなんてね、お連れさんは幸せ者だね」
 ジェイ・ゼルは口元に浮かべていた笑みを、静かに深めた。
「――彼と暮らせて」
 独り言のように、ジェイ・ゼルは呟いていた。
「幸せなのは、私の方だよ、メリガンさん」

 一瞬真顔になってから、突然メリガンさんは声を上げて笑った。
「ああ、ごちそうさま。お腹いっぱいになるよ。幸せそうで何よりだ」
 けらけらと笑って、彼女は思いもかけないことに、片目をこの上なく上手につぶって見せた。
 キノコの入った袋を手渡しながら、彼女は楽しそうにジェイ・ゼルに告げる。
「また、あのきれいな赤毛のお連れさんと一緒においで。おまけをしてあげるからね」
「ありがとう、メリガンさん。また来るよ」
 辞去の挨拶をして、紙袋を手に歩き出す。
 肉屋と、魚屋に寄り目当ての物を購入する。
 シチューが食べたいとこの前ハルシャが言っていた。
 牛肉の塊肉に、上質なものがあったので迷いなくそれを購入した。
 何かを買う度に、それを食べるハルシャの笑顔が視界をよぎる。

 きっと。
 彼の笑顔が見たくて、自分は心を込めて料理を作るのだ。
 料理を作ることは、相手の命を想うこと。
 そう、作文にサーシャが書いたという話を思い出す。
 彼の笑顔一つで、自分はこんなにも幸福を味わうことができる。
 幸せを与えてもらっているのは自分なのだと、そっと心に呟いた。

 刑に服していた七年間、ずっと彼のことを想い続けていた。
 出会ってからこれまでのことを。幾度も幾度も、考え続けた。
 三日ごとにもたらされるハルシャの手紙を読みながら、魂が慟哭していた。
 両親を死に導いた自分を許し、彼は自分を待つと言ってくれていた。
 時間があると、彼の手紙を何度も読み返した。
 七年間、彼の心は一度も変わらなかった。
 手紙の頻度が落ちることもなかった。
 まるで、傍らにずっと彼が寄り添ってくれているようだった。
 目を閉じれば、彼を感じた。
 離れていても、心が通い合っている。
 だから。
 書かずにはいられなかった。
 自分の真実を――
 耐えられないほど辛く苦しい記憶であっても、呼び起こして綴ることが、ハルシャの揺るぎない愛情へ報いる、たった一つの方法のように思えた。

 ハルシャは、自分のいないところで、そっと渡した手記を読んでいる。
 読んだ後は、すぐに解る。
 泣きはらした目をしているからだった。
 ジェイ・ゼルは気づかないふりを続けていた。
 辛い体験を、共有しようとハルシャは努力を重ねている。懸命に自分を理解しようとしてくれているのだと、伝わってくる。
 惑星アマンダで横行している、理解しがたい理不尽さを、彼は必死に受け止めようとしてくれていた。
 彼になら、全てをさらすことが出来る。
 どんなに醜く、屈辱に満ちた過去でも。忌まわしい命の軌跡であっても。
 伝える勇気を、ハルシャの愛が与えてくれた。

 買い物を終え、飛行車へ向かおうとした足を、ジェイ・ゼルはふと止めた。
 生花の露店が出ている。
 店の前には、長い筒状のバケツが並べられ、そこに花が活けられていた。
 目を引かれたのは、華やかな色合いの花々の中に混じる、シンプルな一重のバラの姿だった。
 淡いピンクの五弁の花弁が、ほころびかけている。
 何となく心惹かれて、ジェイ・ゼルは飛行車へ行きかけていた足を、花屋へ向けた。
「いらっしゃい」
 明るい声で迎えらえる。
 エプロンをした四十代後半らしい女性が営む店だった。
 ジェイ・ゼルは愛想よく笑って
「きれいな花だね」
 と声をかけた。
「産地から直接取り寄せた花だからね、新鮮だよ」
 笑いながら女性が応える。
 ジェイ・ゼルの眼は、やはり一重のバラの花に引きつけられた。近くで見ると思ったよりも大ぶりだ。花弁の巻く蕾はやはりバラのもので、つんと尖っている。
「その一重ひとえのバラを――三本もらえるかな」
「良い花を選ぶね」
 店の人は、にこにこしながら、花の入ったバケツから、蕾がたくさんついたバラを三本手早く選び出していた。
「このバラは、花弁が多く巻く普通のバラに比べると地味だけれど、香りが良くて、シンプルで見飽きないよ」
 確かに。
 花から少しスパイシーな香りがしていた。バラの香りと聞いて想像するのとは少し異なるが、良い香りには違いない。
「育てる農家がほとんど無くて、あまり見かけないけれど、私はこのバラが好きでね。契約している農家に無理を言って作ってもらっているんだよ」
 喋る間にも、手は動き続け、三本まとめて紙に包んで簡易の花束にしてくれる。
「こんなに素敵な人に、選んでもらえてとても嬉しいよ」
 にこっと彼女は笑う。
 花を扱っているせいだろうか。彼女はとても柔らかい雰囲気を持っていた。
「貴重なバラをありがとう」
 ジェイ・ゼルは礼を言いながら、代金を支払った。
「大事に家に飾らせてもらうよ」
「ぜひ、香りを楽しんで」
 代金と引き換えに、バラの花束を渡しながら店の女性は言った。

 花を買う。
 それだけで、心が何だか華やぐ。

 この花を見た時に、ハルシャはどんな顔をするだろうか、と想像してみる。
 彼は良い香りが好きだった。
 きっと、淡いピンクの花の香りも、気に入ってくれるだろう。
 そう思ったら、自然と笑みがこぼれていた。
 ハルシャが初めて見る花に驚きながら、良い香りだね、ジェイ・ゼルと感嘆の声を上げるさまが、目に浮かんできた。

「大切な人に、贈るのかい?」
 笑顔のままで彼女が問いかける。
「贈られる人も、贈ってもらうバラも、幸せだね。そんなに嬉しそうにしてもらったら、ね」
 ふふっと、違う笑みがジェイ・ゼルの口元に浮かんだ。
「贈り甲斐のある、美しいものに巡り合わせてくれてありがとう。また、寄らせてもらうよ」
 花束を手に、その場を離れる。
 手にした花からふんわりと香りが漂う。
 胸の中が幸せに満たされるような、明るい香りだった。
 香りは鼻孔を通じて、脳に直接刺激を与える。だから、一番記憶に残るのは嗅覚だともいわれる。
 理屈抜きに、人は香りに魅了されるのだろう。

 ふと。 
 自分たち『愛玩人形ラヴリー・ドール』は、持ち主に愛されるように、香りが付与されていることを、思い出す。
 かつては嫌い抜いていたこの体質を、ハルシャは好きだと言ってくれた。
 とてもいい香りだと。
 ハルシャが喜んでくれている。
 たったそれだけのことで、自分の中の怒りに近い憎しみが、ほどけていくのを感じた。自分たちの価値を高めるために施された、醜悪な遺伝子操作であったとしても、それでいいと思えた。
 ただ――ハルシャが大好きだと、無邪気に伝えてくれた言葉一つで。
 永劫の呪いから、解放されたような気がした。

 飛行車に戻り、真っ直ぐに家路につく。

 シルガネン湖のほとりの家に戻り、一番に、バラを水につけた。
 茎を水に浸したまま、水中で鋭利な刃物で斜めに茎を切ってあげると、水揚げが良くなる。
 バラは繊細な植物で、水を吸わなくなり枯れてしまうことがある。
 だから、あまりバラは買わないようにしていたが、この一重のバラにはなぜか心惹かれた。
 手入れの礼をするように、バラから新しい香りが溢れる。
 空間が、香りに染まっていく。
 不思議と心が穏やかになっていく匂いだった。

 バラを水につけた後、ジェイ・ゼルは買い物を保冷庫に入れ、夕食の段取りをする。
 今日、ハルシャは午後七時に戻ってくると言っていた。
 それに合わせて料理を作ることにする。
 まだ、時間があった。
 バラを水の中に放置して、ジェイ・ゼルは再び私室へ向かった。






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