ほしのくさり

余話 ~天からこぼれた物語~

ハルシャの子守唄
~誕生日おめでとう、ジェイ・ゼル~


はじめに

※ジェイ・ゼルが刑を終えて一年半。二人で暮らし始めてから五か月ほど経った頃、初夏の帝星での物語です。
 ハルシャとジェイ・ゼルの後日談になります。(一話完結)




「ハルシャ」
 ジェイ・ゼルは優しく声をかけた。
「少し、飲み過ぎてしまったかな」
 彼の手に水の入ったグラスを渡して、微笑む。
「それを飲んだら、もうベッドに行こうか」

 赤い顔で、ハルシャが自分を見ている。
 が。
 目の焦点が合っていない。
「――ジェイ・ゼル……」
 呂律も回っていない。
 今日は、いささか酒量を超えてしまったようだ。
 理由はあった。
 ジェイ・ゼルの誕生祝いのクラヴァッシュ酒を、ハルシャは喜んで飲み――量を越してしまったのだ。


 自分の誕生日のことなど、ジェイ・ゼルは忘れて生きてきた。
 生涯で一度も祝ったことなどなかったように思う。
 考えもしなかった。

 生まれたのではなく、作り出されたということも大きかったのかもしれない。
 自分が惑星アマンダの道具としてこの世に生をけた日を、祝う気持ちなどジェイ・ゼルにはなかった。
 だが。
 ハルシャは、誕生日というのに重きを置いていたようだ。

 改まった様子で呼び止め、ジェイ・ゼルの生まれた日はいつなのだろうか、と、真面目な顔で尋ねてくる。
 今まで、気にしなくて申し訳なかったと、心からの詫びと共に彼は、真摯に問いかけてきた。
 ジェイド・ラダンスの戸籍は、実際の生年月日を引き継いで作ってくれている。
 帝星ディストニア暦で記録されている誕生日まで、気付けば一ヶ月ほどだった。
 日にちを告げると、瞳をキラキラと輝かせて、ぜひお祝いをしようと切り出してきた。
 生まれた日に特別な思い入れなどない。
 むしろ、忌まわしい日のように自分は感じていたのかもしれない。
 だから、やんわりと断ることにした。

 別に気にしなくてもいいよ、ハルシャ。
 ただ、年を一つ重ねるだけだからね。

 普段なら、ハルシャはこちらの意を汲んで、素直に言葉に従ってくれる。
 けれど、この件については別だったようだ。
 断りを告げても、ハルシャが引かない。
 どうしても祝いたいらしい。
 逆に気を遣っていると思ったのかもしれない。遠慮しなくてもいい、と満面の笑みで彼は言った。その上、皆を招いて会食をしようと、輝く瞳で提言してくる。
 ジェイ・ゼルは笑って、それだけは勘弁してくれとハルシャに告げる。
 彼は、とても驚いたような顔で自分を見た。思いもかけないことに、ひたすら動揺しているようだ。

 い、嫌なのか、ジェイ・ゼル?

 言葉を詰まらせながら問いかけるので、ジェイ・ゼルは簡単に断ることが出来なくなった。自分のためなのだと、十分過ぎるほど伝わってくる。
 うろたえながら、ハルシャが言葉を続ける。

 ジェイ・ゼルが生まれた日を祝いたいんだ。
 だめだろうか?

 懸命なハルシャの言葉に、ふと、胸を突かれた。
 かつて。
 深く愛し合った後、彼は惑星アマンダで自分を作り上げた科学者たちに、感謝の言葉を述べていた。
 自分を生みだしてくれてありがとう、と。
 心が震えた瞬間が蘇る。
 誕生日を祝うのはハルシャにとって、自分がこの世に存在することを祝福するのと同義語なのだろう。
 この命を、ハルシャが大切に思ってくれているのなら、心に添うのも悪くないと、思い返す。優しさを無下には出来なかった。
 だから、言葉を変えてこう言った。

 ハルシャが、私を想ってくれる気持ちが、とても嬉しいよ。
 そうだね。
 皆で一緒というのでなく、ハルシャ一人に祝ってもらうのなら――
 私は嫌ではないよ。

 その言葉に、彼は笑顔を取り戻して、うんうんと何度もうなずく。

 わかった、ジェイ・ゼル。
 二人だけでお祝いをしよう。

 頬を赤らめて告げられる「二人だけ」という言葉が、特別な響きを帯びていた。ひどく親密で、心が交わり合っていくようだ。
 屈託ない笑みを見つめていると、胸の奥に痺れるような愉悦が湧き上がる。
 想いのままに引き寄せて唇を覆う。
 自分の生き方を変えても構わないと思うほど、彼が愛しかった。

 そこから、ハルシャは懸命に自分を喜ばそうと、計画を立ててくれたようだ。
 誕生日当日は、外で食事をすることになる。
 二人だけの祝いの席を用意したのだが、良いだろうかと、数日前に打ち明けるようにハルシャは問いかけてきた。
 リュウジのアドバイスも受けながら、上質なレストランの個室を用意してくれたようだ。完全予約制の店で、一日の客数が限定されているらしい。リュウジの紹介もあってか、特別に席を用意してくれたのだと、笑顔でハルシャが告げる。
 自分のために彼が懸命に心を尽くしてくれているのが、伝わってくる。妙にくすぐったいような、不思議な感覚にとらわれたのはなぜだろう。
 もちろんだ、嬉しいよと伝えると、ハルシャは満面の笑みになった。

 誕生日の当日。
 仕事終わりに待ち合わせをし、飛行車で迎えてから一緒に予約の場所へ向かう。
 辿りついたのは、帝都ハルシオンの郊外にある隠れ家的な料理店だった。客数を限定しているだけあって、とても閑静なたたずまいだ。
 予約客だけを受け入れるのは、厳選した食材で最高のもてなしを信条にしているからのようだ。
 リュウジの紹介ということもあってか、支配人が自ら丁寧に接待をしてくれる。
 案内された落ち着いた雰囲気の個室で、極上の時間を過ごした。
 ハルシャは料理にも心を砕いてくれたようだ。メインの肉料理はラム肉だった。
 彼が自分の好みを憶えていてくれたことが、妙に嬉しい。
 終始、ハルシャは笑顔だった。
 こんな表情を見ることが出来るなら、譲って良かったと微笑みながらジェイ・ゼルは思う。
 楽しい時間は瞬く間に過ぎた。

 自宅に戻ってから、ハルシャが改まった様子で誕生日のプレゼントを渡してくれる。
 最上級のクラヴァッシュ酒が三本だった。

 三本だった理由は、最後までどの銘柄がいいかに迷い、最終的に絞り切れなくなったからのようだ。
 ジェイ・ゼルはクラヴァッシュ酒が好きだから、何本あっても嬉しいかと思って、と、照れながらハルシャが告げる。
 豪気にも、彼は全部購入したようだ。初めて二人で祝う誕生日と言うことで、張り込んでくれたらしい。

 散財させてしまったね。

 と言うと、彼は全力で首を振った。

 気にしないでくれ!
 ジェイ・ゼルが喜んでくれたら、それで最高に私は嬉しい。

 必死に言う言葉に、思わず笑みがこぼれる。
 普段着に替えた後、早速に、彼のプレゼントから一本を選んで封を解き、二人でグラスを合わせる。
 とても美味しいクラヴァッシュ酒だった。
 ビロードのように滑らかに喉を滑っていく。

 女神が喉を通り抜けたようだ。
 香りも華やかで、極上の味わいだね。
 ありがとう、ハルシャ。最高のプレゼントだよ。

 そう告げると、ハルシャが照れたように笑った。
 ジェイ・ゼルは、とても詩的な言葉を使う。
 と、彼は頬を赤らめる。
 君が私を詩人にするのだよ、と、笑ってジェイ・ゼルは言葉を返す。
 見つめ合い、途切れた言葉の後、互いの口の中のクラヴァッシュ酒の味を、長く確かめ合った。

 居間のソファーで身を寄せ、会話を交わし、グラスを重ねる。
 気分が高揚していたのだろう。
 ハルシャはいつもの彼の限界よりも、はるかに多い量を飲んでいた。
 止めようかと考えたが、あまりに楽しそうに飲んでいるのでジェイ・ゼルは見守ることにした。
 だが、やはり飲み過ぎたようだ。
 今もソファーに身を委ねて、彼はとろんとした目で自分を見上げている。


 手渡されたグラスの水を見つめて、彼は何度も瞬きをしている。グラスをこれからどうしたらいいのかと、考え込むような雰囲気だ。
 酔いのために、思考が鈍っているのかもしれない。
 何よりも、眠そうだった。

 くすっと笑って、ジェイ・ゼルはグラスをハルシャの手から取った。
 おや? 
 というように、ハルシャが空になった自分の手を見つめている。先ほどまでは、グラスが手にあったはずなのにどうして消えたのだろう? といぶかしがるように、眉を寄せる。
 いとけない姿だった。

 微笑みながら、受け取ったグラスの水を口に含むと、ハルシャの唇を覆った。
 こくん、こくんと彼の喉が動いて、水を受け入れている。
「もう少し、飲むか? ハルシャ」
 問いかけに、頭が揺れる。
 優しく口に水を送り込むと、彼は素直に飲む。
 最後の水に二日酔い止めの薬を忍ばせ、ジェイ・ゼルはグラスを置くと、両手でハルシャの頬を包んだ。

 音をさせてハルシャが注がれた物を、飲み込む。

 眠気が限界に来たのだろう。
 唇を覆われたまま、目を閉じて、こちらに体重を預けてくる。
「もう、ベッドに行こうか。ハルシャ」
 髪を撫でて耳元に呟く。
 薄っすらと目が開いて、暫くしてから閉じられた。
 体から力が抜ける。
 完全に眠気に勝てなくなったようだ。

 微笑みながら、熱を帯びる身体を抱き上げて、ジェイ・ゼルはハルシャをベッドに運んだ。
 うにゃうにゃと何かをハルシャが呟いている。
 酩酊するハルシャは、ひどく無防備になる。
 律儀に暮らす普段との落差が、たとえようもなく愛らしかった。

 上掛けを跳ね上げて、ベッドに横たえる。
 室内履きを脱がせ、衣服を少し緩めてからそのままベッドに寝かしつけた。
 シーツに身を委ねて、ハルシャはすぐに眠りに引き込まれたようだった。

 自然と笑みが浮かぶ。
 火照る頬をそっと撫でて、ジェイ・ゼルは額に唇を寄せた。

「ありがとう、ハルシャ。最高の誕生日だったよ」

 応える言葉はなく、すーっ、すーっと寝息が唇から漏れている。
 名残を惜しみながら顔を離すと、ジェイ・ゼルは居間に戻った。
 グラスと瓶の始末を終えてから、さっとシャワーで汗を流す。
 ハルシャをどうしようかと考えたが、このまま寝かせておく方が良いだろうと、判断をつけ、浴室を出た。
 朝、目が覚めた後に風呂に入れば、身もさっぱりするだろう。

 寝室に戻ると、ハルシャは暑かったのか、布団をはねのけていた。
 体を縛る服が苦しかったのかもしれない。
 シャワーを浴びることは無理かもしれないが、せめて楽にしてあげようと、ジェイ・ゼルはハルシャの緩めた服を、脱がせにかかる。
 ぐったりとした身から服を除く。
 解放されて楽になったのだろう。
 ハルシャは再び深い眠りに引き込まれたようだ。

 ジェイ・ゼルは、脱いだ服の始末をつけてから、再び寝室へと戻った。
 今度は大人しくハルシャは眠っている。
 笑みがこぼれる。
 寝台を回り、いつもの場所に身を滑り込ませる。
 シャワーを浴びて、冷えた自分の身が心地よかったのだろうか。清涼感を求めるように、ハルシャが身を寄せて来た。
 触れ合う場所が、熱かった。
 ぴとりと胸に頬をあてがい、彼は再び眠りについた。

 笑みを浮かべたまま、ジェイ・ゼルはハルシャの髪を優しく撫でた。
 ふっと、ハルシャが眼を開く。
 焦点の合わない金色の瞳が、覚束ない眼差しで自分を見上げている。
 せっかく寝ていたのに起こしてしまったようだ。
 なだめるように、再び髪を撫でる。
「おやすみ、ハルシャ」
 優しく言うと、彼はゆっくりと瞬きをした。
「――ジェイ・ゼル?」
 語尾を上げて、彼が名を呼ぶ。
「そうだよ、ハルシャ」

 答えた言葉に、彼は再び瞬きをする。
 目は開いているが意識はまだ朦朧としているらしい。
「楽しい誕生日だったよ」
 ぼんやりと見つめてくるハルシャに、微笑みを与えながらジェイ・ゼルは呟く。
「ありがとう。嬉しいよ」
 ちゅっと音をさせて、額に唇を触れる。
「ゆっくりお休み」
 言葉を聞いているのか、聞いていないのか、ハルシャは考え込むように沈黙し、瞬きを繰り返している。
 ふと、気付いたように、髪を撫でている手に、指先を触れてきた。
 ジェイ・ゼルの手を取ると、ハルシャは自分の前へと引き寄せる。
 物珍しいように、じっとジェイ・ゼルの指を見つめている。
「私は」
 不意に、ハルシャが口を開く。
「ジェイ・ゼルの手が、好きだ」

 突然の、きっぱりとした宣言に、ジェイ・ゼルは思わず笑い声を上げた。
「そうか。それは嬉しいな」
 ハルシャの眼差しが上がる。
「ジェイ・ゼルも、好きだ」
 手だけでは申し訳ないと思ったのか、懸命に付け加えている。
 酩酊したハルシャは、こちらの想像もしない言動を振り撒く。
 楽しさに、笑みがこぼれる。
「光栄だよ、ハルシャ」

 視線を落として、ハルシャが捉えたジェイ・ゼルの指先を、しげしげと見つめている。
「ジェイ・ゼルの、指が、好きだ」
 再び断言すると、突然ハルシャが、ジェイ・ゼルの指をぱくりと口に含んだ。
 舌を絡ませて、大事そうに指を舐め始める。
 酔っぱらったハルシャは、突拍子もないことを仕掛けてくる。
 予想外過ぎて、ジェイ・ゼルはハルシャを見つめたまま為すすべがなかった。

 静寂の中に、水音が響く。
 一心に舐める姿に、無理に口から抜くことが出来ない。
 酔いを得たハルシャの口中は、とても熱かった。しっとりと熱が指先を包む。
 されるがままに身を任せていると、ぞくっと、下腹部に重いものが走った。
 自分が翻弄されるなど、めったにないことだ。

「ハ……ハルシャ」

 予期せぬ動揺を滲ませて、思わず名を呼んでしまう。
 声が聞こえないように、ハルシャは熱心に指先を口に含み、軽く吸いながら優しく舐め上げる。
 爪と指との間に舌先を絡める。
 大事そうに、いつまでも口で愛撫をしてくる。ハルシャの立てる水音が、ほの暗い部屋に響き続けていた。
 黙したまま、ジェイ・ゼルは彼の行為を受け入れるしかなかった。
 酔っぱらったハルシャは意外と大胆になる。
 理性がかける枷が外れるのか、本能の赴くままに愛撫を施してくる。
 不測の事態に、息が、乱れてきてしまった。丁寧に、愛しそうに口に含むハルシャの姿に、胸の奥が甘やかにしびれていく。

 まずい。

 と、ジェイ・ゼルは心の中に舌打ちする。
 このままでは、彼を問答無用で抱いてしまうかもしれない。
 意識が朦朧とする中で、身を合わせることを、ジェイ・ゼルは好まなかった。
 ハルシャの意思を尊重していないような気がするのだ。
 愛し合うなら、彼の意識がはっきりしている時がいい。
 自分の歯止めが効かなくなる前に、ハルシャの行為をやめさせる必要があった。

「ハルシャ」
 優しく名を呼ぶ。
 空いている方の手で、彼の髪を撫でる。
「――ハルシャ」

 幾度目かに名を呼んだ時、ハルシャの動きが止まった。
 ようやく声が耳に響いたのかもしれない。
 指から口を離し、ぼんやりと見上げてくる。
 唇が、艶やかに光ってみえる。
 時折ハルシャは……想像以上の色気を醸し出す。
 今も、とろんとした目で見上げてくる表情に、思わず劣情が湧き上がりそうになる。情欲を抑えつけると、ジェイ・ゼルは静かに呟いた。

「もう十分だよ」
 穏やかに声をかけながら、髪を撫で続ける。
「ありがとう。ハルシャ」

 ハルシャが瞬きをする。
「ジェイ・ゼルが、好きだ」
 不意に、きっぱりとした口調で彼は言った。

 微笑みがこぼれる。
「知っているよ、ハルシャ。だから、安心しておくれ」
 なだめるように、ジェイ・ゼルは言葉を滴らせる。
「美味しい料理をたくさん頂いて、ハルシャが側に居てくれて、素晴らしいプレゼントをもらって――私は幸せだよ。誕生日を祝ってもらうのは、とても嬉しいことだね。初めて知ったよ、ハルシャ。君のお陰だ」
 酔いを得ているので、彼の記憶には残らないかもしれないと思いながら、それでも心の中を伝える。
「ありがとう」

 感謝の言葉に、ハルシャが眉を寄せた。
「好きだ」
 子どもが言い張るように、ハルシャが呟く。
「ジェイ・ゼルが、好きだ」
 想いを伝えたいという、一途な心が愛しかった。
 思わず笑みを深めながら、彼に返す。
「私も大好きだよ、ハルシャ」

 その一言で、不意に何かを納得したらしい。
 にこっとハルシャが微笑んだ。

 蕩けそうな甘やかな笑みに、不覚にも胸が震える。
 言葉を態度で示すように、熱を帯びる身を寄せて、ハルシャがぎゅっと自分を抱き締めてくる。髪に頬を当て、優しい声がこぼれ落ちた。

「大好きだ、ジェイ・ゼル」

 言葉が、出ない。
 愛しさが溢れて、喉がつまる。

「ハルシャ――」
 世界で一番大切なもののように、ただ、彼の名を呼ぶことしかできない。
 想いを込めて、髪を撫でる。
 赤い艶やかな髪が、手の中でさらさらと音を立てた。

 突然、ハルシャが歌い出した。
 かつて教えた子守唄だった。
 驚きに身を強張らせたのかもしれない。
 抱き締めていた手を緩めて、ハルシャが首を上げた。
「前に」
 熱い息を吐きながら、ハルシャが呟く。
「ジェイ・ゼルが、歌ってくれと言ったのに、断って悪かった」

 何のことを言っているのかと、記憶を手繰り、はたと思い出す。
 ラグレンで最後に一緒に過ごしたとき、自分はハルシャに憶えたての子守唄を歌ってくれと願ったが、照れ屋の彼は恥ずかしさのあまり、断ってきた。
 その時のことを、まだ気にしていたようだ。
「ああ、ハルシャ」
 笑いを含んだ声で答える。
「全然気にしていないよ。こちらこそ、あの時は急に無茶なことを頼んで、すまなかったね」

 ゆっくりと瞬きをしてから、ハルシャが口を開く。
「何度も、何度も歌ったから、きちんと覚えている」
 ハルシャが訴えるように言葉を続ける。
「間違えずに、歌えると思う」

 鶴は千年。亀万年。
 お前が先にいったなら。
 後の九千年がわしゃ 辛い。

 愛しているからこそ、寿命の違いで残されることが辛いと歌う、子守唄。
 ふと、胸を突かれた。

 金色の瞳を見つめる。

 『愛玩人形ラヴリー・ドール』の自分に、与えられた時間は、あまりにも短い。
 側に居てくれと、眠りの中で呟いていたハルシャの言葉が蘇る。

 こんなに愛しいのに。
 私は、ハルシャを、残してこの世を去ってしまう。
 いつか、彼を独りにしてしまう。

「ハルシャ」
 言葉に出来ない想いを込めて、ただ、彼の名を呼ぶ。
 瞬きをしてから、ハルシャがきっぱりとした口調で言う。
「ジェイ・ゼルに、子守唄を歌いたい」
 金色の瞳が自分を映す。
「嫌か?」

 鶴は千年。
 亀は万年。

 種族が違っても、寿命の違いはあっても――
 それでも、愛を育むことができるのなら。
 自分の全てをかけて、彼を愛し抜きたかった。

「嬉しいよ」
 ハルシャの唾液の絡んだ指で、そっと頬に触れる。
「君が子守唄を歌ってくれるなら――」
 微笑みがこぼれ落ちる。
「極上の眠りにいざなわれるだろうね」

 言葉と眼差しに、ハルシャが満面の笑みで応えた。
 彼は腕を伸ばして、ジェイ・ゼルの頭を抱えるようにして、抱き締めてくる。
 ほとんど無意識の行動のようだった。
 きっと。
 幼い頃のサーシャに子守唄を歌うたびに、こうやって彼女を腕に包んでいたのだろう。
 かつての習慣のように、ジェイ・ゼルに対しても守るように身に引き寄せる。
 ハルシャの、熱を帯びた肌が頬に触れる。
 汗をかいたのだろうか。麦藁のような彼の匂いがした。

 ぎゅっと抱き寄せたまま、ハルシャが歌い出した。
 熱い息が、髪に触れる。
 遠い昔、イズル・ザヒルが自分たちを寝かしつける時に歌ってくれた、子守唄。
 思い出に胸が震える。
 今ここに生きてあることを、ジェイ・ゼルは噛み締めた。

 少し高い、かすれた歌声が寝室に響く。
 自分は今、まるで幼子のようにハルシャの腕に抱かれていた。

 生まれて初めて祝われた、自分の生まれた日。
 大切な人が、自分の存在を祝福してくれている。
 それが、こんなにも嬉しかった。

 ふと。
 思う。

 これからきっと、ハルシャは年が巡るごとに、自分の生まれた日を祝福してくれるだろう。
 そうやって――
 彼と生きていく歳月が、重ねられていく。

 一年。
 また、一年。

 人生を絡めながら、彼と共に歩んでいくのだ。
 自分がこの世に存在することを、誰よりも喜んでくれる人が傍らにいてくれる。
 それだけで。
 醜悪な惑星に作りだされたこの身の内側に、命がともって良かったとすら思えてくる。
 彼に出会わなければ――
 自分はまだ、まがい物であり続けただろう。生を享けたことを恥じ、『愛玩人形ラヴリー・ドール』である自己を否定し続けていた。
 明けない闇の中を、さすらうように。
 
 彼の両親の死に関わり屈辱的な行為を強いていた自分を、それでもハルシャは許し、今も両のかいなに抱きとめてくれる。
 優しい子守唄を聞きながら、不思議な安らぎが身の中を満たしていった。
 この瞬間が、ハルシャからもらった何よりの誕生祝いのように思えた。
 彼の腕の中で、自分自身であることを許され――眠りにいざなう歌声に身を任せていることが。

 幼い子どもに戻って、揺るぎない愛情に包まれているようだ。

 長く孤独な旅の末に、ようやくたどり着いた故郷。この腕の中が、自分のいるべき場所だった。
 だから、こんなにも懐かしい。
 命が与えられたのは、きっと――彼を愛するためなのだろう。
 初めて出会った時も、そして今も。
 ただ。
 彼だけが愛しかった。

 少しだけかすれた歌声が、二人だけの空間に響き続けていた。
 力を抜いて、ハルシャに全身をゆだねる。
 身を抱く腕の優しさと、寄せた頬から感じる愛しい人の鼓動の確かさと。
 懐かしい歌に心を浸しながら――
 ジェイ・ゼルは瞼を閉じた。

 いつしか穏やかな眠りの中に、ジェイ・ゼルは引き込まれていった。
 まどろみの中にすら、柔らかな歌声がこだましていた。


 その夜。
 ジェイ・ゼルが見た夢は、胸が締めつけられるほどに幸せなものだった。




『ハルシャの子守唄』 了



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