ハルシャとジェイ・ゼルの後日談になります。(一話完結)
「ハルシャ」
ジェイ・ゼルは優しく声をかけた。
「少し、飲み過ぎてしまったかな」
彼の手に水の入ったグラスを渡して、微笑む。
「それを飲んだら、もうベッドに行こうか」
赤い顔で、ハルシャが自分を見ている。
が。
目の焦点が合っていない。
「――ジェイ・ゼル……」
呂律も回っていない。
今日は、いささか酒量を超えてしまったようだ。
理由はあった。
ジェイ・ゼルの誕生祝いのクラヴァッシュ酒を、ハルシャは喜んで飲み――量を越してしまったのだ。
自分の誕生日のことなど、ジェイ・ゼルは忘れて生きてきた。
生涯で一度も祝ったことなどなかったように思う。
考えもしなかった。
生まれたのではなく、作り出されたということも大きかったのかもしれない。
自分が惑星アマンダの道具としてこの世に生を
だが。
ハルシャは、誕生日というのに重きを置いていたようだ。
改まった様子で呼び止め、ジェイ・ゼルの生まれた日はいつなのだろうか、と、真面目な顔で尋ねてくる。
今まで、気にしなくて申し訳なかったと、心からの詫びと共に彼は、真摯に問いかけてきた。
ジェイド・ラダンスの戸籍は、実際の生年月日を引き継いで作ってくれている。
日にちを告げると、瞳をキラキラと輝かせて、ぜひお祝いをしようと切り出してきた。
生まれた日に特別な思い入れなどない。
むしろ、忌まわしい日のように自分は感じていたのかもしれない。
だから、やんわりと断ることにした。
別に気にしなくてもいいよ、ハルシャ。
ただ、年を一つ重ねるだけだからね。
普段なら、ハルシャはこちらの意を汲んで、素直に言葉に従ってくれる。
けれど、この件については別だったようだ。
断りを告げても、ハルシャが引かない。
どうしても祝いたいらしい。
逆に気を遣っていると思ったのかもしれない。遠慮しなくてもいい、と満面の笑みで彼は言った。その上、皆を招いて会食をしようと、輝く瞳で提言してくる。
ジェイ・ゼルは笑って、それだけは勘弁してくれとハルシャに告げる。
彼は、とても驚いたような顔で自分を見た。思いもかけないことに、ひたすら動揺しているようだ。
い、嫌なのか、ジェイ・ゼル?
言葉を詰まらせながら問いかけるので、ジェイ・ゼルは簡単に断ることが出来なくなった。自分のためなのだと、十分過ぎるほど伝わってくる。
うろたえながら、ハルシャが言葉を続ける。
ジェイ・ゼルが生まれた日を祝いたいんだ。
だめだろうか?
懸命なハルシャの言葉に、ふと、胸を突かれた。
かつて。
深く愛し合った後、彼は惑星アマンダで自分を作り上げた科学者たちに、感謝の言葉を述べていた。
自分を生みだしてくれてありがとう、と。
心が震えた瞬間が蘇る。
誕生日を祝うのはハルシャにとって、自分がこの世に存在することを祝福するのと同義語なのだろう。
この命を、ハルシャが大切に思ってくれているのなら、心に添うのも悪くないと、思い返す。優しさを無下には出来なかった。
だから、言葉を変えてこう言った。
ハルシャが、私を想ってくれる気持ちが、とても嬉しいよ。
そうだね。
皆で一緒というのでなく、ハルシャ一人に祝ってもらうのなら――
私は嫌ではないよ。
その言葉に、彼は笑顔を取り戻して、うんうんと何度もうなずく。
わかった、ジェイ・ゼル。
二人だけでお祝いをしよう。
頬を赤らめて告げられる「二人だけ」という言葉が、特別な響きを帯びていた。ひどく親密で、心が交わり合っていくようだ。
屈託ない笑みを見つめていると、胸の奥に痺れるような愉悦が湧き上がる。
想いのままに引き寄せて唇を覆う。
自分の生き方を変えても構わないと思うほど、彼が愛しかった。
そこから、ハルシャは懸命に自分を喜ばそうと、計画を立ててくれたようだ。
誕生日当日は、外で食事をすることになる。
二人だけの祝いの席を用意したのだが、良いだろうかと、数日前に打ち明けるようにハルシャは問いかけてきた。
リュウジのアドバイスも受けながら、上質なレストランの個室を用意してくれたようだ。完全予約制の店で、一日の客数が限定されているらしい。リュウジの紹介もあってか、特別に席を用意してくれたのだと、笑顔でハルシャが告げる。
自分のために彼が懸命に心を尽くしてくれているのが、伝わってくる。妙にくすぐったいような、不思議な感覚にとらわれたのはなぜだろう。
もちろんだ、嬉しいよと伝えると、ハルシャは満面の笑みになった。
誕生日の当日。
仕事終わりに待ち合わせをし、飛行車で迎えてから一緒に予約の場所へ向かう。
辿りついたのは、帝都ハルシオンの郊外にある隠れ家的な料理店だった。客数を限定しているだけあって、とても閑静なたたずまいだ。
予約客だけを受け入れるのは、厳選した食材で最高のもてなしを信条にしているからのようだ。
リュウジの紹介ということもあってか、支配人が自ら丁寧に接待をしてくれる。
案内された落ち着いた雰囲気の個室で、極上の時間を過ごした。
ハルシャは料理にも心を砕いてくれたようだ。メインの肉料理はラム肉だった。
彼が自分の好みを憶えていてくれたことが、妙に嬉しい。
終始、ハルシャは笑顔だった。
こんな表情を見ることが出来るなら、譲って良かったと微笑みながらジェイ・ゼルは思う。
楽しい時間は瞬く間に過ぎた。
自宅に戻ってから、ハルシャが改まった様子で誕生日のプレゼントを渡してくれる。
最上級のクラヴァッシュ酒が三本だった。
三本だった理由は、最後までどの銘柄がいいかに迷い、最終的に絞り切れなくなったからのようだ。
ジェイ・ゼルはクラヴァッシュ酒が好きだから、何本あっても嬉しいかと思って、と、照れながらハルシャが告げる。
豪気にも、彼は全部購入したようだ。初めて二人で祝う誕生日と言うことで、張り込んでくれたらしい。
散財させてしまったね。
と言うと、彼は全力で首を振った。
気にしないでくれ!
ジェイ・ゼルが喜んでくれたら、それで最高に私は嬉しい。
必死に言う言葉に、思わず笑みがこぼれる。
普段着に替えた後、早速に、彼のプレゼントから一本を選んで封を解き、二人でグラスを合わせる。
とても美味しいクラヴァッシュ酒だった。
ビロードのように滑らかに喉を滑っていく。
女神が喉を通り抜けたようだ。
香りも華やかで、極上の味わいだね。
ありがとう、ハルシャ。最高のプレゼントだよ。
そう告げると、ハルシャが照れたように笑った。
ジェイ・ゼルは、とても詩的な言葉を使う。
と、彼は頬を赤らめる。
君が私を詩人にするのだよ、と、笑ってジェイ・ゼルは言葉を返す。
見つめ合い、途切れた言葉の後、互いの口の中のクラヴァッシュ酒の味を、長く確かめ合った。
居間のソファーで身を寄せ、会話を交わし、グラスを重ねる。
気分が高揚していたのだろう。
ハルシャはいつもの彼の限界よりも、はるかに多い量を飲んでいた。
止めようかと考えたが、あまりに楽しそうに飲んでいるのでジェイ・ゼルは見守ることにした。
だが、やはり飲み過ぎたようだ。
今もソファーに身を委ねて、彼はとろんとした目で自分を見上げている。
手渡されたグラスの水を見つめて、彼は何度も瞬きをしている。グラスをこれからどうしたらいいのかと、考え込むような雰囲気だ。
酔いのために、思考が鈍っているのかもしれない。
何よりも、眠そうだった。
くすっと笑って、ジェイ・ゼルはグラスをハルシャの手から取った。
おや?
というように、ハルシャが空になった自分の手を見つめている。先ほどまでは、グラスが手にあったはずなのにどうして消えたのだろう? といぶかしがるように、眉を寄せる。
いとけない姿だった。
微笑みながら、受け取ったグラスの水を口に含むと、ハルシャの唇を覆った。
こくん、こくんと彼の喉が動いて、水を受け入れている。
「もう少し、飲むか? ハルシャ」
問いかけに、頭が揺れる。
優しく口に水を送り込むと、彼は素直に飲む。
最後の水に二日酔い止めの薬を忍ばせ、ジェイ・ゼルはグラスを置くと、両手でハルシャの頬を包んだ。
音をさせてハルシャが注がれた物を、飲み込む。
眠気が限界に来たのだろう。
唇を覆われたまま、目を閉じて、こちらに体重を預けてくる。
「もう、ベッドに行こうか。ハルシャ」
髪を撫でて耳元に呟く。
薄っすらと目が開いて、暫くしてから閉じられた。
体から力が抜ける。
完全に眠気に勝てなくなったようだ。
微笑みながら、熱を帯びる身体を抱き上げて、ジェイ・ゼルはハルシャをベッドに運んだ。
うにゃうにゃと何かをハルシャが呟いている。
酩酊するハルシャは、ひどく無防備になる。
律儀に暮らす普段との落差が、たとえようもなく愛らしかった。
上掛けを跳ね上げて、ベッドに横たえる。
室内履きを脱がせ、衣服を少し緩めてからそのままベッドに寝かしつけた。
シーツに身を委ねて、ハルシャはすぐに眠りに引き込まれたようだった。
自然と笑みが浮かぶ。
火照る頬をそっと撫でて、ジェイ・ゼルは額に唇を寄せた。
「ありがとう、ハルシャ。最高の誕生日だったよ」
応える言葉はなく、すーっ、すーっと寝息が唇から漏れている。
名残を惜しみながら顔を離すと、ジェイ・ゼルは居間に戻った。
グラスと瓶の始末を終えてから、さっとシャワーで汗を流す。
ハルシャをどうしようかと考えたが、このまま寝かせておく方が良いだろうと、判断をつけ、浴室を出た。
朝、目が覚めた後に風呂に入れば、身もさっぱりするだろう。
寝室に戻ると、ハルシャは暑かったのか、布団をはねのけていた。
体を縛る服が苦しかったのかもしれない。
シャワーを浴びることは無理かもしれないが、せめて楽にしてあげようと、ジェイ・ゼルはハルシャの緩めた服を、脱がせにかかる。
ぐったりとした身から服を除く。
解放されて楽になったのだろう。
ハルシャは再び深い眠りに引き込まれたようだ。
ジェイ・ゼルは、脱いだ服の始末をつけてから、再び寝室へと戻った。
今度は大人しくハルシャは眠っている。
笑みがこぼれる。
寝台を回り、いつもの場所に身を滑り込ませる。
シャワーを浴びて、冷えた自分の身が心地よかったのだろうか。清涼感を求めるように、ハルシャが身を寄せて来た。
触れ合う場所が、熱かった。
ぴとりと胸に頬をあてがい、彼は再び眠りについた。
笑みを浮かべたまま、ジェイ・ゼルはハルシャの髪を優しく撫でた。
ふっと、ハルシャが眼を開く。
焦点の合わない金色の瞳が、覚束ない眼差しで自分を見上げている。
せっかく寝ていたのに起こしてしまったようだ。
なだめるように、再び髪を撫でる。
「おやすみ、ハルシャ」
優しく言うと、彼はゆっくりと瞬きをした。
「――ジェイ・ゼル?」
語尾を上げて、彼が名を呼ぶ。
「そうだよ、ハルシャ」
答えた言葉に、彼は再び瞬きをする。
目は開いているが意識はまだ朦朧としているらしい。
「楽しい誕生日だったよ」
ぼんやりと見つめてくるハルシャに、微笑みを与えながらジェイ・ゼルは呟く。
「ありがとう。嬉しいよ」
ちゅっと音をさせて、額に唇を触れる。
「ゆっくりお休み」
言葉を聞いているのか、聞いていないのか、ハルシャは考え込むように沈黙し、瞬きを繰り返している。
ふと、気付いたように、髪を撫でている手に、指先を触れてきた。
ジェイ・ゼルの手を取ると、ハルシャは自分の前へと引き寄せる。
物珍しいように、じっとジェイ・ゼルの指を見つめている。
「私は」
不意に、ハルシャが口を開く。
「ジェイ・ゼルの手が、好きだ」
突然の、きっぱりとした宣言に、ジェイ・ゼルは思わず笑い声を上げた。
「そうか。それは嬉しいな」
ハルシャの眼差しが上がる。
「ジェイ・ゼルも、好きだ」
手だけでは申し訳ないと思ったのか、懸命に付け加えている。
酩酊したハルシャは、こちらの想像もしない言動を振り撒く。
楽しさに、笑みがこぼれる。
「光栄だよ、ハルシャ」
視線を落として、ハルシャが捉えたジェイ・ゼルの指先を、しげしげと見つめている。
「ジェイ・ゼルの、指が、好きだ」
再び断言すると、突然ハルシャが、ジェイ・ゼルの指をぱくりと口に含んだ。
舌を絡ませて、大事そうに指を舐め始める。
酔っぱらったハルシャは、突拍子もないことを仕掛けてくる。
予想外過ぎて、ジェイ・ゼルはハルシャを見つめたまま為すすべがなかった。
静寂の中に、水音が響く。
一心に舐める姿に、無理に口から抜くことが出来ない。
酔いを得たハルシャの口中は、とても熱かった。しっとりと熱が指先を包む。
されるがままに身を任せていると、ぞくっと、下腹部に重いものが走った。
自分が翻弄されるなど、めったにないことだ。
「ハ……ハルシャ」
予期せぬ動揺を滲ませて、思わず名を呼んでしまう。
声が聞こえないように、ハルシャは熱心に指先を口に含み、軽く吸いながら優しく舐め上げる。
爪と指との間に舌先を絡める。
大事そうに、いつまでも口で愛撫をしてくる。ハルシャの立てる水音が、ほの暗い部屋に響き続けていた。
黙したまま、ジェイ・ゼルは彼の行為を受け入れるしかなかった。
酔っぱらったハルシャは意外と大胆になる。
理性がかける枷が外れるのか、本能の赴くままに愛撫を施してくる。
不測の事態に、息が、乱れてきてしまった。丁寧に、愛しそうに口に含むハルシャの姿に、胸の奥が甘やかにしびれていく。
まずい。
と、ジェイ・ゼルは心の中に舌打ちする。
このままでは、彼を問答無用で抱いてしまうかもしれない。
意識が朦朧とする中で、身を合わせることを、ジェイ・ゼルは好まなかった。
ハルシャの意思を尊重していないような気がするのだ。
愛し合うなら、彼の意識がはっきりしている時がいい。
自分の歯止めが効かなくなる前に、ハルシャの行為をやめさせる必要があった。
「ハルシャ」
優しく名を呼ぶ。
空いている方の手で、彼の髪を撫でる。
「――ハルシャ」
幾度目かに名を呼んだ時、ハルシャの動きが止まった。
ようやく声が耳に響いたのかもしれない。
指から口を離し、ぼんやりと見上げてくる。
唇が、艶やかに光ってみえる。
時折ハルシャは……想像以上の色気を醸し出す。
今も、とろんとした目で見上げてくる表情に、思わず劣情が湧き上がりそうになる。情欲を抑えつけると、ジェイ・ゼルは静かに呟いた。
「もう十分だよ」
穏やかに声をかけながら、髪を撫で続ける。
「ありがとう。ハルシャ」
ハルシャが瞬きをする。
「ジェイ・ゼルが、好きだ」
不意に、きっぱりとした口調で彼は言った。
微笑みがこぼれる。
「知っているよ、ハルシャ。だから、安心しておくれ」
なだめるように、ジェイ・ゼルは言葉を滴らせる。
「美味しい料理をたくさん頂いて、ハルシャが側に居てくれて、素晴らしいプレゼントをもらって――私は幸せだよ。誕生日を祝ってもらうのは、とても嬉しいことだね。初めて知ったよ、ハルシャ。君のお陰だ」
酔いを得ているので、彼の記憶には残らないかもしれないと思いながら、それでも心の中を伝える。
「ありがとう」
感謝の言葉に、ハルシャが眉を寄せた。
「好きだ」
子どもが言い張るように、ハルシャが呟く。
「ジェイ・ゼルが、好きだ」
想いを伝えたいという、一途な心が愛しかった。
思わず笑みを深めながら、彼に返す。
「私も大好きだよ、ハルシャ」
その一言で、不意に何かを納得したらしい。
にこっとハルシャが微笑んだ。
蕩けそうな甘やかな笑みに、不覚にも胸が震える。
言葉を態度で示すように、熱を帯びる身を寄せて、ハルシャがぎゅっと自分を抱き締めてくる。髪に頬を当て、優しい声がこぼれ落ちた。
「大好きだ、ジェイ・ゼル」
言葉が、出ない。
愛しさが溢れて、喉がつまる。
「ハルシャ――」
世界で一番大切なもののように、ただ、彼の名を呼ぶことしかできない。
想いを込めて、髪を撫でる。
赤い艶やかな髪が、手の中でさらさらと音を立てた。
突然、ハルシャが歌い出した。
かつて教えた子守唄だった。
驚きに身を強張らせたのかもしれない。
抱き締めていた手を緩めて、ハルシャが首を上げた。
「前に」
熱い息を吐きながら、ハルシャが呟く。
「ジェイ・ゼルが、歌ってくれと言ったのに、断って悪かった」
何のことを言っているのかと、記憶を手繰り、はたと思い出す。
ラグレンで最後に一緒に過ごしたとき、自分はハルシャに憶えたての子守唄を歌ってくれと願ったが、照れ屋の彼は恥ずかしさのあまり、断ってきた。
その時のことを、まだ気にしていたようだ。
「ああ、ハルシャ」
笑いを含んだ声で答える。
「全然気にしていないよ。こちらこそ、あの時は急に無茶なことを頼んで、すまなかったね」
ゆっくりと瞬きをしてから、ハルシャが口を開く。
「何度も、何度も歌ったから、きちんと覚えている」
ハルシャが訴えるように言葉を続ける。
「間違えずに、歌えると思う」
鶴は千年。亀万年。
お前が先にいったなら。
後の九千年がわしゃ 辛い。
愛しているからこそ、寿命の違いで残されることが辛いと歌う、子守唄。
ふと、胸を突かれた。
金色の瞳を見つめる。
『
側に居てくれと、眠りの中で呟いていたハルシャの言葉が蘇る。
こんなに愛しいのに。
私は、ハルシャを、残してこの世を去ってしまう。
いつか、彼を独りにしてしまう。
「ハルシャ」
言葉に出来ない想いを込めて、ただ、彼の名を呼ぶ。
瞬きをしてから、ハルシャがきっぱりとした口調で言う。
「ジェイ・ゼルに、子守唄を歌いたい」
金色の瞳が自分を映す。
「嫌か?」
鶴は千年。
亀は万年。
種族が違っても、寿命の違いはあっても――
それでも、愛を育むことができるのなら。
自分の全てをかけて、彼を愛し抜きたかった。
「嬉しいよ」
ハルシャの唾液の絡んだ指で、そっと頬に触れる。
「君が子守唄を歌ってくれるなら――」
微笑みがこぼれ落ちる。
「極上の眠りにいざなわれるだろうね」
言葉と眼差しに、ハルシャが満面の笑みで応えた。
彼は腕を伸ばして、ジェイ・ゼルの頭を抱えるようにして、抱き締めてくる。
ほとんど無意識の行動のようだった。
きっと。
幼い頃のサーシャに子守唄を歌うたびに、こうやって彼女を腕に包んでいたのだろう。
かつての習慣のように、ジェイ・ゼルに対しても守るように身に引き寄せる。
ハルシャの、熱を帯びた肌が頬に触れる。
汗をかいたのだろうか。麦藁のような彼の匂いがした。
ぎゅっと抱き寄せたまま、ハルシャが歌い出した。
熱い息が、髪に触れる。
遠い昔、イズル・ザヒルが自分たちを寝かしつける時に歌ってくれた、子守唄。
思い出に胸が震える。
今ここに生きてあることを、ジェイ・ゼルは噛み締めた。
少し高い、かすれた歌声が寝室に響く。
自分は今、まるで幼子のようにハルシャの腕に抱かれていた。
生まれて初めて祝われた、自分の生まれた日。
大切な人が、自分の存在を祝福してくれている。
それが、こんなにも嬉しかった。
ふと。
思う。
これからきっと、ハルシャは年が巡るごとに、自分の生まれた日を祝福してくれるだろう。
そうやって――
彼と生きていく歳月が、重ねられていく。
一年。
また、一年。
人生を絡めながら、彼と共に歩んでいくのだ。
自分がこの世に存在することを、誰よりも喜んでくれる人が傍らにいてくれる。
それだけで。
醜悪な惑星に作りだされたこの身の内側に、命がともって良かったとすら思えてくる。
彼に出会わなければ――
自分はまだ、まがい物であり続けただろう。生を享けたことを恥じ、『
明けない闇の中を、さすらうように。
彼の両親の死に関わり屈辱的な行為を強いていた自分を、それでもハルシャは許し、今も両の
優しい子守唄を聞きながら、不思議な安らぎが身の中を満たしていった。
この瞬間が、ハルシャからもらった何よりの誕生祝いのように思えた。
彼の腕の中で、自分自身であることを許され――眠りにいざなう歌声に身を任せていることが。
幼い子どもに戻って、揺るぎない愛情に包まれているようだ。
長く孤独な旅の末に、ようやくたどり着いた故郷。この腕の中が、自分のいるべき場所だった。
だから、こんなにも懐かしい。
命が与えられたのは、きっと――彼を愛するためなのだろう。
初めて出会った時も、そして今も。
ただ。
彼だけが愛しかった。
少しだけかすれた歌声が、二人だけの空間に響き続けていた。
力を抜いて、ハルシャに全身をゆだねる。
身を抱く腕の優しさと、寄せた頬から感じる愛しい人の鼓動の確かさと。
懐かしい歌に心を浸しながら――
ジェイ・ゼルは瞼を閉じた。
いつしか穏やかな眠りの中に、ジェイ・ゼルは引き込まれていった。
まどろみの中にすら、柔らかな歌声がこだましていた。
その夜。
ジェイ・ゼルが見た夢は、胸が締めつけられるほどに幸せなものだった。
『ハルシャの子守唄』 了